映画『四月の永い夢』、乗り越えられない死に寄り添い続けるということ

【この記事のキーワード】

「喪失と再生の物語」?

 もちろん映画は物語の要請により、喪失の底にいる彼/彼女たちが何とかその喪失に意味を見出し、一つの区切りをつけ、もう一度歩き出す可能性を示唆する。

 けれどこれを「喪失と再生の物語」とまとめるのに戸惑いを覚えるのは、例えば『走れ』においても『四月』においても、喪失を引き受ける適切な「喪」の可能性は物語の最後の最後にようやく示唆されるにとどまるからだ。それまでの99%の時間、私たちは漣(『走れ』)や初海(『四月』)と共に、意味づけを拒み彼女らを縛り続ける死と共にある。そして何よりも、『走れ』においても『四月』においても、死の意味づけ――なぜ亡くなったのか、何が起こったのか、私にとってあの人は誰だったのか――は、最後までなされることはない。

 『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を例にとろう。

 自死した親友・薫が最後に残した中学時代の同級生の絵を片手に、彼の故郷を訪ねる。そんな一種のロード・ムービーである本作では、主人公・漣が探求する薫の死の真相――何故命を絶ったのか、何を思って死んだのか――は物語の最後まで謎であり続ける(薫が亡くなる前にもう一枚残した、夕陽の海へ向かうパラグライダーの絵が、彼は絶望からではなく自由を求めて身を投げたのではないかという微かな可能性を示唆するものの)。

 「自分に関係なく死なれたならその方がつらい」と吐露する漣にとって、誰よりも理解しているはずだった薫が自分を置いて行ってしまったという感覚は、薫の元恋人・理沙子ら同級生達が大企業に就職して「大人」になっていく中で、自分は(おそらくは就活に失敗して)工場勤務であり、学生時代のような身なりのままであるという状況と重ね合わされる。薫に置いて行かれることはそのまま、世界に置いて行かれることなのだ。

 漣の再生は、薫の死を引き受けることよりもむしろ、(主に男性の)他者との繋がりを通じてなされる。これを最も象徴するのは、終盤、薫が命を絶った崖で出会った見知らぬ壮年男性にご飯をご馳走になり、溢れる涙を拭おうともせずにひたすらに掻き込む長回しのシーンだ。

 生のままの生命力を描く極めて感動的なこのシーンに続き、職場の先輩や行きつけの食堂で働く女性とのやり取りを通じて描き出される漣の再生は、けれど必ずしも薫を弔い終えるということを意味するわけではない。むしろ、薫の遺志を引き受けるかのように自らもパラグライダーを始め、彼が見た光景を見ようとする漣は、薫を弔うのではなく彼と共にあり続けることを引き受けているかのように見える。誰かを弔うこととは、最終的には私とあの人は別の人だと引き受けることであるのならば。

永い夢から醒めて

(以下『四月の永い夢』のあらすじに少しだけ触れます)

 中学の教師を辞めて蕎麦屋でアルバイトをしている初海のもとに、三年前に亡くなった恋人が書き残した手紙が届く。古い勉強机に『めぞん一刻』や教師時代の本が転がる部屋が象徴するように、初海もまた喪失によって時間の流れに取り残された一人だ。長い夢に留まる彼女は、勤務先の蕎麦屋の閉店、ジャズシンガーとなったかつての教え子・楓との再会、そして手拭い工場で働く青年・藤太郎による求愛によってゆすり起こされようとしている。やがて彼女は恋人の最後の手紙の送り主である彼の家族を訪ねることを決意する。それは一つの小さな秘密を告白するためでもあった――。

 『四月の永い夢』において物語の一つの中心である蕎麦屋のアルバイト・初海とその客・藤太郎の関係は、ちょうど『走れ』における漣と食堂の女性の関係を反転させたようなものになっている。そして『走れ』が主に男同士の絆を通じて喪失から再生に至る物語であるのに対して、『四月』において初海は藤太郎との関係だけでなく傷を負った女同士の絆を通じて再生へ歩んでいく。同棲中の恋人にDVを受ける楓や、同じく蕎麦屋で働くバツイチの忍、そして亡き恋人の母・沓子と世代の違いを越えた繋がりを築くことを通じて、初海は自身の傷と向き合い始めていく。

 初海はよくものをもらう。そもそも亡くなった恋人からの、つまり返すことの出来ない手紙を巡るこの作品で、初海は藤太郎からは彼がデザインした手拭いを、楓からは彼女の歌うジャズCDを、忍からは高額の退職金を半ば押しつけられ、そのたびに返礼を申し出るも断られ、返せない贈り物を受け取り続ける。こうした贈り物によって描き出されるのは、やはり動き続ける世界と止まったままの彼女の時間の対比に他ならないだろう。

 けれど初海は先ほど述べた女たちの繋がりを機に歩き始める――文字通りに。本作でも特に印象に残るのは、初海が歩く姿を描く二つの長回しのシーンだ。その一つは、ビルの屋上で花火を肴にBBQパーティをする中で一人柵に持たれる藤太郎のもとへ歩み寄る場面。そしてもう一つは、藤太郎に案内された手拭い工場から帰宅する初海が、赤い靴の楽曲『書を持ち僕は旅に出る』を背景に夜の町を跳ねるように歩く場面だ。楓や忍のいるテーブルから藤太郎の立つ柵まで歩く前者の場面では、実際の屋上のスペースからは明らかに長すぎる距離を、背筋を伸ばし歩く初海の凛とした姿勢が強調される。そしてイヤホンから流れるポップな音楽に包まれてありふれた夜の通りを楽しげに歩く後者の場面は、音楽が止まった瞬間に訪れる寂寥を色濃く強調し、外部を遮断した自分だけの夢から静寂を通して圧倒的な存在感を持って迫る世界に否応なく向き直る初海の姿を鮮烈に描き出す。

 かくして初海は過去に向き合うべく、そして小さな、しかし物語の意味を決定的に変えてしまう一つの秘密を告白するために、亡き恋人の家族を訪問することを決意する。先ほど述べたように、『四月』においても死は最終的に謎であり続ける。死の一時間前にパスタの写真をSNSにアップした恋人がなぜ亡くなったのか、彼の死を機に初海が教師を退職したのはなぜか、つまり彼の死の意味はなんだったのか、という問いに答えが出されることはない。けれど私たちが知るのは、『走れ』における漣の旅が友の死の意味を求め、やがて彼と同じ光景を見るに至るものであったのに対して、初海の旅はむしろかつての恋人に対し本当の意味で別れを告げるためのものだったということだ。冒頭のフロイトの語彙を借りれば、容易に「喪」に至ることのできない、意味づけを拒むメランコリーに寄り添いながら、それでもなお歩き始める初海の姿を鮮やかに描く『四月の永い夢』は、誰かを弔うとはどういうことかという困難な問いについてのひとつの誠実な答えを観る者に伝えてくれる。

『四月の永い夢』は512日から全国の劇場で公開中だ
(Lisbon22)

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