
wikipediaより
麻生太郎財務相が、福田淳一前財務事務次官のセクハラ問題を巡った自身の「(福田前事務次官が女性に)はめられた可能性がある」という発言を撤回し、初めて謝罪したのは今月14日のこと。また麻生大臣は「セクハラ罪っていう罪はない」という発言についても、「誤解を与えたのであれば発言の仕方を考えないといけない」とも述べていた。
その4日後、政府は逢坂誠二議員(立憲民主党)が提出した「セクハラ罪という罪に関する質問主意書」を受け、「現行法令において『セクハラ罪』という罪は存在しない」との答弁書を閣議決定した。
挙げたらキリがない麻生氏の失言→撤回
麻生氏は今回、自身の発言を撤回し、謝罪した。しかし、麻生氏はこれまでにも多くの失言をし、批判が殺到した後に撤回することを繰り返してきた。彼の失言は「麻生節」と呼ばれるなどしており、彼のキャラクターの一部であるかのように捉えられてきた部分があるが、彼の発言を改めてじっくりと見直してみると、政治家の資質を備えているとは到底思えない発言ばかりだ。過去の例を一部、ご紹介しよう。
「見てただけで主催か主導か判断できない。自分たちで主導していないと言うのであれば、それは訂正させて頂く」
これは、今年2月19日の衆院予算委員会での自身の発言についての訂正の言葉だ。
立憲民主党の山崎誠氏から、16日に国税庁前で行われた佐川宣寿前国税庁長官の罷免を求める集会について質問された麻生大臣は、「御党の指導で、街宣車が財務省前で(抗議を)やっていた事実は知っている」と述べた。
これに対し、立憲民主党の川内博史氏が「活動に参加したが、指導はしていない」と反論。冒頭の発言は、これを受けての訂正だ。
「やっていた事実は知っている」と、まるで事実であるかのように断言していたものの、反論されるとすぐさま訂正。何の根拠も、事実確認もなく発言したということか。
「私個人の人生観を述べたものだが、公の場で発言したことは適当でない面もあった」
これは、2013年1月21日の社会保障制度改革国民会議で終末医療・尊厳死について次のように述べたことについての訂正のコメントだ。
「私は遺書を書いて『そういうことはしてもらう必要はない、さっさと死ぬんだから』と渡してあるが、そういうことができないと、なかなか死ねない」
「(私は)死にたい時に死なせてもらわないと困る」
「しかも(医療費負担を)政府のお金でやってもらうというのは、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと、総合的なことを考えないと、この種の話は解決がないと思う」
同日午後、訂正のコメントを発表し発言を撤回した。
尊厳死について個人がどう考えるのかは自由だ。しかし、彼は権力をもった政治家であり、発言は影響力をもち、自らの考えを政策として実行する力ももっている。そのような自身の立場を考慮せず、公の場で語った言葉を“個人の人生観だった”と片付けてしまうのはあまりにも慎重さに欠けている。
「まともな医者が不快な思いをしたというのであれば申し訳ない」
2008年11月19日、当時、首相だった麻生氏が全国知事会で医師不足問題に関連して次のように発言したことへの謝罪の言葉。
「(医師には)社会的常識がかなり欠落している人が多い。ものすごく価値判断が違う」
知事会終了後、記者団に対し「医者は友達にもいっぱいいるが、おれと波長が合わない人が多い」などと述べた上での謝罪だった。医者全般を貶めるような発言に批判が出ていたにもかかわらず、対象を「まともな医者」に限定している時点で、これは謝罪として成立していない。当時民主党の幹事長だった鳩山由紀夫氏は「首相の方こそ社会的常識が欠落している」と批判しているが、全くその通りだ。
失言は撤回すれば済むものなのか
このように失言と撤回を繰り返す麻生氏だが、、失言というものは撤回すれば済むものなのだろうか。
撤回したとしても「火の無い所に煙は立たぬ」的に、デマを広げてしまいかねない。
先に挙げた例で言えば、立憲民主党議員に対して述べた「御党の指導で、街宣車が財務省前で(抗議を)やっていた事実は知っている」との発言。その後訂正したが、「知っている」とまで言い切ってしまっている。国民が「あそこまで言い切っているんだから、もしかしたらそういう部分もあるのかもしれない」との疑念を抱いてしまっても無理はない。
後に訂正したとしても、事実関係の確認さえせず、根拠なく適当に言った最初の発言があたかも事実であるかのように広まってしまうことは少なくない。
ツイッターでの情報を分析した調査では、デマは真実より1.7倍拡散(リツート)されやすく、一定数に6倍速く達していたとの調査結果もある。ツイッターやネット上だけに限らず、最初に聞いた驚きや意外性を孕んだ情報だけがあっという間に広まり、後に発表されたある意味面白みに欠ける真実は広まらないということは実感としてあるのではないだろうか。
もちろん、誰でも失言の可能性はあるし、内容に関わらず失言をしたら必ず一発退場というのは窮屈過ぎるかもしれない。だが、彼は政治家であってタレントなどではないのだ。政治家である彼らの考えが国の未来に影響するといっても過言ではない。撤回をしようが、失言の内容が度を過ぎていたり、何度も失言するような場合は政治家としての資質が疑われるべきだ。
「誤解を与えたのであれば〜」は謝罪か?
今回、麻生氏は自身の発言について「誤解を与えたのであれば発言の仕方を考えないといけない」と述べた。このように、「誤解を与えたのであれば」という弁解は政治家などが失言について謝罪する際のお決まりの文句のひとつになっている。
「誤解」とは、発言の真意と受け手の認識がずれてしまっている状態を指す言葉だ。もし本当に「誤解を与えた」のであれば、必要なのは謝罪ではなく真意の説明のはずだ。それをせずに「誤解を与えたから謝罪する」というのは、ただの逃げではないか。
麻生氏は、政治家として、そして一人の大人として自身の発言の責任をとるべきだ。
(もにか)