【歴史学者・小田部雄次氏インタビュー 前編】
2018年5月25日、宮内庁は、秋篠宮家の長女・眞子内親王の結婚延期をめぐる一部週刊誌の報道に、天皇、皇后両陛下が心を痛めているとの声明を同庁ホームページで公開した。2017年末以降、眞子内親王の婚約者・小室圭氏の母親の400万円を超える借金トラブルが週刊誌やワイドショーで取り沙汰され、今年2月には宮内庁より2人の結婚延期が発表されたのは周知の通り。しかし、この結婚延期騒動を「小室家側に問題があった」で片付けてよいのだろうか?
日本近現代史が専門の歴史学者で、近代以降の皇室の在り方にも詳しい小田部雄次・静岡福祉大学名誉教授の話をもとに、過去に起きた皇室の婚姻トラブルを参照しながら騒動の背景を全3回に分けて考察する。
【歴史学者・小田部雄次氏インタビュー 中編】
【歴史学者・小田部雄次氏インタビュー 後編】
皇太子嘉仁親王婚約解消事件と「宮中某重大事件」
戦前における皇室の婚姻トラブルで特に有名なものとして、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の婚約解消事件と、「宮中某重大事件」の2つがある。このうち前者は、1893(明治26)年5月、明治天皇は嘉仁親王の妃として、翌月に満8歳の誕生日を控えていた伏見宮禎子(さちこ)女王を内定したが、その6年後に突如婚約が取り消されてしまった事件である。
「婚約取り消しの理由は、禎子さんに肺病の疑いがあったためです。実は、明治天皇は取り消しには反対だったんです。しかし皇太子もまた病弱だったので、なおさら妃候補は健康な女性が望ましいという侍医団の強い要請に、最終的に明治天皇が折れた格好です」(小田部雄次氏、以下同)
なぜ健康な女性が望ましいかといえば、健康な男子を産んでもらわなければならないから。つまり、男系男子による皇位継承のためである。そして、禎子女王に代わる妃候補として浮上したのが、のちの貞明皇后である九条節子(さだこ)だった。
「節子さんは子どものころは農家で育てられた、およそ九条家という公家のお嬢様とは思えないおてんば娘で“九条の黒姫”ともいわれましたが、体は健康そのものでした。実際、大正天皇との間に4人の男子をもうけ、皇位継承者問題も一件落着しました」
なお、婚約破棄の憂き目にあった禎子女王はその後、華族(旧公家や旧武家の上層階級)の山内家に嫁いだが、子宝には恵まれなかった。それを、明治天皇の側近が明治天皇に伝えたところ、明治天皇は激怒したという逸話が残されている。
「そんなものは結果論でしかないですからね。それくらい明治天皇は禎子さんのことを気に入っていたということなのでしょうが、それでも『世継ぎを産んでもらわなければ困る』という侍医の意見を無視することはできなかったのでしょう」
明治天皇は、嘉仁親王の成婚式のあと、禎子女王を気の毒に思ったのか、彼女に5万円(現在の2億円程度に相当)の公債証書を与えてもいる。いうなれば、破談になってしまったことに対する慰謝料である。
この大正天皇の婚姻トラブルは皇位継承問題に起因するわけだが、正室ではなく側室に男子を産ませるという選択肢はなかったのか。というのも、明治天皇と皇后である昭憲皇太后との間に実子はなく、5人の側室との間に5男10女をもうけ、男子で唯一成人した嘉仁親王が皇位を継承しているからだ。
「明治に入り日本はヨーロッパの国々と交流するようになるわけですが、それらはキリスト教文化圏の国々であり、一夫一婦制なんです。あちら側の価値観からすれば、側室=一夫多妻制というのは野蛮なんですよね。民間からも側室制度を疑問視する声が上がっていて、その一例がジャーナリストの黒岩涙香が当時の有名雑誌に連載していた『弊風一斑 蓄妾の実例』です。これは「蓄妾」(ちくしょう)と「畜生」をかけていて、現在は文庫本(現代教養文庫)にもなっているのですが、要は西園寺公望には妾がいるとか九条節子は側室の子だとか、かなりの数の名門の家系を調べ上げ、側室や妾はみっともないと批判しているんです」
ただ、当時は名門が側室を置くのは当たり前であり、金を持っている男は妾を囲っていた。それが大正期になって少しずつ側室や妾に対して否定的な空気が醸成され、また日本の近代化をアピールする対外政策との絡みで徐々に一夫一妻制に傾いていったという。
「事実、大正天皇は側室を置かず、実質的に側室を廃止した天皇ともいえますし、続く昭和天皇は女官制度を改革して側室を廃止しようとしました。その意味では、時代の空気を敏感に読み取ったという見方もできるでしょう。また、明治天皇も側室の子であり、二代続いて側室の子が天皇になっているので、そろそろ正室の子を天皇にしたいという思いが強くなっていたかもしれません。もしくは、その両方でしょうね」
極めて政治的に定義づけられた「皇族」
昨今の皇位継承問題をめぐる議論において、旧宮家(旧皇族)の復活を求める声もある。つまり、旧宮家の子孫の男系男子を皇室に入れ、皇位継承資格者を確保しようというのだ。であれば、大正天皇の皇位継承者も、宮家から選出することは可能だったのではないか。その前に、宮家について簡単に説明しよう。
江戸期までは、「四親王家」と呼ばれる伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮が、天皇家の血統が断絶した場合の皇位継承者を出す宮家として存在した。しかし明治維新前後の混乱の中、新しい宮家が次々と創設され、「皇族」の定義は流動的となる。これを確定させたのが、1889(明治22)年に大日本帝国憲法と同時に制定された、旧皇室典範である。
「要するに、明治に入り天皇制国家を築くために皇族をたくさんつくったのですが、増えすぎても予算がかかって困るから、これ以上作ってはいけませんというルールを決めたわけです」
その意味では、極めて政治的に「皇族」が定義づけられたともいえる。結果として、この旧皇室典範制定後、宮家は計15となるが、そのうち桂宮と有栖川宮は早々に廃絶。一方で子沢山だった伏見宮の系統に宮家が新設され(閑院宮も伏見宮から養子を入れることで廃絶を免れた)、これが戦前のいわゆる11宮家となる。

「今上天皇に連なる天皇家と、15宮家の系譜」 戦前皇族の多くを占めた伏見宮系の皇族たちは、南北朝時代の北朝3代崇光天皇(在位:1348〜1351年)までさかのぼらないと、今上天皇につながる血統とは交わらない。(※略した代数は、天皇は皇位継承の代数、皇族は当主の代数を示す)
「しかし、この伏見宮は南北朝期の北朝第3代崇光天皇(在位1348~51年)の血統で、換言すれば、11宮家の皇族たちは、南北朝期までさかのぼらなければ天皇と祖先を同じくしない。だから血縁としては非常に遠く、本来なら皇族にならない家柄だったんですよね」
では、なぜそんな血縁の遠い家柄が宮家となり得たのか。
「明治期につくられた宮家というのは、皇位継承者を出す家というよりは、天皇の娘の嫁ぎ先という意味合いが強かった。もっといえば、内親王(皇女)の嫁ぎ先は皇族であってほしいというのが、明治天皇の望みだったんです。実際、11宮家のうち、旧皇室典範制定後の1906(明治39)年に明治天皇の意向で例外として創設された竹田宮、東久邇宮、朝香宮は、まさにそのためにつくられたといっていい。当時、明治天皇には4人の成人した娘がいたのに、結婚適齢期の男子が北白川宮にしかいなかった。だから、嫁ぎ先としての宮家を新たにつくらせたんです」
11宮家は“傍系”であり、天皇家としては、直系の男子に皇位を継がせたいという思惑があったというわけである。
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