
『日本のヤバい女の子』(柏書房)著者・はらだ有彩さん
今年5月、初の単著である『日本のヤバい女の子』(柏書房)を刊行されたはらだ有彩さん。浦島太郎の乙姫や虫愛づる姫君、道成寺の清姫にイザナミといった、昔話に登場する女の子たちを取り上げた新感覚のエッセイとして、今話題を呼んでいます。
彼女たちはみんな怖い。残酷だったり気まぐれだったり横暴だったり見た目が整っていなかったり、とてもじゃないけれど“よい女の子”とは言えない人たちばかり。「女性は淑やかで従順であるべき」「か弱く、男性より劣った守られる存在であるべき」「男性のために見た目に気を配るべき」……今も昔も“女”に課せられるレギュレーションを、次々にぶち壊していきます。『日本のヤバい女の子』は、彼女たちの「ちょっと聞いてくれる?」に耳を傾け、想像を巡らせ、「今の時代にもこんなヤバいことがあってさぁ」と文句を言い合い、慰め合い、そして涙を拭きながら励まし合っていくような一冊です。
昔話の世界に見る「風潮に流される」ことの恐ろしさ、現代において矮小化される女性の怒り、苦しさを抱えて現実を生きる私たちに、物語がくれるもの。また著者はなぜ、昔話を今の時代に新しく語り継ぐのか。“ヤバい女の子”たちの究極の女友達であり、永い時間の流れに思いを馳せるストーリーテラーであるはらださんに、お話を伺いました。
“男が女に助けられる=恥”という風潮
——『日本のヤバい女の子』は古くから伝わる民話や伝承のエピソードを参照しつつ、そこに現れる女の子たちを単なる登場人物ではなく、血の通った一人の人間として描いています。さまざまな役割を負わされつつ、その枠組みを破壊していく彼女たちの姿にシンパシーを感じる読者も多いと思いますが、なぜ昔話を題材にされたのでしょうか。
はらだ:大学を卒業して社会に出てから、「ままならないなぁ」と感じることがたくさんあって。たとえば会社でのハラスメントとか、それまで言葉や対話で解決できると思っていたことが全然通用しなくて、周りも特に疑問を持っていない、みたいなこと。でもそういうのって時代が進むにつれて改善されてきているから、今はたぶん歴史の中で一番マシな状態のはずだと思ったんですよね。そうしたら「今でさえこんな感じなのに、昔の人って大丈夫だったん!?」って心配になってきちゃって……。昔話を読んで調べてみることにしたんですけど、案の定大丈夫じゃなかった。
——この本は、鎌倉時代の夫婦の逸話「おかめ伝説」から始まっています。大工の夫・高次が犯した失敗を優れた助言でリカバーしたおかめは、しかし「女の助言で仕事を成功させたなんて知られたら、夫の名誉に傷がつく」と自害をしてしまう。これは“男が女に助けられる=恥”という当時の風潮によるものですが、今の時代では考えられないことですよね。だけど現代においても、理不尽な風潮というものは確かに存在する。
はらだ:おかめの話を読んだとき、本当に「なんで!?」って思ったんですよね。でも私自身、ごく最近までそういう風潮みたいなものに流されまくりだったところもあって。それこそ“大学を出たら就職するもの”って思って就職をしていたし、ブラック企業で結構ひどい目に遭ったにも関わらず“就職したら三年は働くもの”って思い込んでそのまま働き続けていた。別に嫌ならさっさとやめればいいし、誰もそうしなきゃいけないなんて言っていないのに、疑うことをまったくしてこなかったんです。26歳くらいになってようやく自我というものに目覚めた、みたいな感じで……。「今まで信じてたのは何だったんや!?」ってなって、仕事もやめて、これまでなんとなく従ってきたものに反抗しようと思って文章を書き始めました。
——明らかに理にかなっていないことでもなぜか固定された価値観としてあって、しかも当事者もそれを知らぬ間に内面化している、ということがありますよね。夫の窮地を機転で救えるほど聡明な女性だったおかめでさえ、歪な価値観を飲み込んで自害してしまった。だけど高次は妻に助けられたことを本当に恥だと思っていたのか。“世間は”じゃなく“高次は”どう感じるのかを確かめられていたら、と歯がゆい気持ちになりました。
はらだ:高次はきっと風潮に従うよりも、おかめが生きていてくれる方を望んだはず。じゃなかったら、妻がああいう形で死んでしまったことを後世に残る形で語ったりしないですよね。それでもおかめが「高次に恥をかかせたくない」って思い詰めて自害してしまうくらいには、“女に仕事を助けられるのは恥”って感覚がみんなの中に浸透していたんだと思います。でも後世の、社会の風潮が変わった後の私たちから見たら本当にやりきれない。今だったらありえないし、じゃあ彼女の死ってなんだったんだろうってなる。だから「今みんながそうだから」という理由で何かをするっていうのは、すごく怖いことだなって思います。
「この風潮はおかしい」と書き記した人がいた
——昔の“そういうもの”が今では“ありえない”になるように、時代が移り変わるにつれて、人々の間にある価値観も少しずつ更新されています。ですが逆に「これは昔の方がマシだったな」ということはありましたか。
はらだ:昔話を読んでいると、女性が“人ならざる力”みたいなものを持っている存在で「怒らせると大変なことになる」っていう描かれ方をされているんです。それはすごくいいなって思いました。能面において、鬼になったときに角が生えるのは基本的には女の人の面だけらしいんですけど、強大な力を発揮したり、何か別の存在に変化したりする力があるものとしてみんなが認識しているわけですよね。たとえば道成寺に伝わる『安珍・清姫伝説』の清姫は、自分を騙した男を大蛇に化けて焼き殺すし、『鬼神のお松』は夫を亡くし、知人の男に裏切られた怒りと悲しみで復讐の鬼になる。「どうせ何もできやしないだろう」という認識によるキャラクター設定ではなくて、最終兵器を持っている存在としてそこにいるのがよかった。
——今の日本って女性の怒りというものが矮小化されているというか、「女は何があってもじっと耐え忍ぶべき」とか、「女の怒りはただのヒステリーで、取るに足らないもの」というような認識が広くあるように感じます。
はらだ:「保育園落ちた日本死ね」って、ありましたよね。あれを釣りだと思ってる人、おそらく男性っぽいアカウントが、インターネットに一定数いたんです。「女性がそんな乱暴な言い方するわけないだろう。これは釣り、俺には分かる」みたいな感じで。「いやいやいや、あるでしょ!?」って思ったんですけど。昔話にはバチバチにキレてすべてを破壊し尽くす乱暴な女性がたくさん登場するので、それがどうして消滅していったのかが分からない。
——一方で「女は怖い」ふうの言説も存在するけれど、それはそれで“女の敵は女”系の、男性たちが掌握できて、笑って許せたり面白がれたりするものでしかない気がします。
はらだ:「想像できる範囲の怒りでしかないだろう」という感じはあるかもしれないです。この間も「日本のヤバい女の子」のweb連載で書いたんですけど、能に『竹生島』っていう演目があって、そこは弁財天、つまり女の神様が司ってる島だから、女の人は入ってはいけないっていう決まりになっている。お参りにきた男性二人が、地元の漁師と一緒にいた女性の船に乗せてもらって島に行くんですけど、さあ上陸しましょうっていうときにその女性も一緒に入ろうとするので、「ここは女人禁制だけど大丈夫? 神様が怒らない?」と尋ねたら、「いや、そんなんまったく怒りませんけど」って答える。実はその女性こそが弁財天の化身だったんです。周囲は“女の敵は女”みたいに勝手に決めつけているけど、実際にそんなことはないのにねっていう話なんですよ。
——かなり進んだ考えが導入されていますね。
はらだ:「能の演目が作られた当時にその概念がすでに存在していたんだ、どこかに『みんなこう言ってるけど、なんかおかしいんじゃないか』って思って書き記した人がいたんだ」ってびっくりして。ちょっと元気が出ますよね。にも関わらず、その学びが現代に全然引き継がれていない。そういうのも興味深いし、不思議だなって思います。
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