
(写真:ロイター/アフロ)
今、アメリカはトランプ政権によるビザ無し移民の親子分離問題で揉めている。国内外からの厳しい非難に屈したトランプは親子分離を止める大統領令を出しはしたものの、すでに引き離されている2,000人を上回る子供たちの親との再会は遅々として進んでいない。
参考:授乳中の母親から赤ん坊を引き剥がす〜トランプの「ゼロ寛容」不法移民政策
この件に対する抗議デモが全米でおこなわれ、その際、トランプ・ハットを被った白人女性が14歳のラティーノ少年に向かって「お前なんか真っ先に強制送還される!」「汚いメキシコ人め!」と叫んだ瞬間の写真が報じられている。
大統領であるトランプ自身があらゆるマイノリティへの誹謗中傷、差別発言を繰り返すため、人種差別主義者たちは悪びれることなく差別言動をみせるようになった。凝り固まったレイシストを他者が変えることはほとんど不可能だ。だからこそアメリカは人種差別をおこなえば批判され、社会的な制裁を受ける風土をポリティカル・コレクトネスとして育んできた。
社会的地位、財産、名誉など多くのものを抱える者(≒高等教育を受けた者)ほど、それらを無くす恐怖からポリティカル・コレクトネスを実践してきたと言える。ところが今、そうした者たちがトランプから人種差別の“許可証”を得たと錯覚し、驚くべき行動に出ている。
その対象はラティーノ、イスラム教徒、アジア系などあらゆる人種・民族・宗教に及ぶが、アメリカでは昔から黒人への苛烈な差別の歴史があり、現在も続いている。日本でも時折報道されるように、まったく無実の黒人が警官によって射殺や絞殺される事件が毎年のように起こっている。玩具の銃で遊んでいた14歳の黒人少年が警官に射殺されたこともある。フーディをかぶっていた17歳の黒人少年が地域の自警団を名乗る男に射殺された事件もある。
だが、先に挙げた社会的地位を持つ者たちは、そうした暴力行為を自身ではおこなわず、「警察に通報」という手段を取る。以前の記事に書いたように、スターバックスの店長が、黒人客がコーヒーを注文せずにトイレを使おうとしたと通報、エアビーアンドビーからスーツケースを運び出す黒人女性の宿泊客を、近隣住人が「泥棒」と通報、イェール大学院生が、共用スペースでうたた寝してしまった黒人の院生を通報、名門スタンフォード大学で博士号を取得していた女性が、黒人一家が公園の間違った場所でBBQをしていると通報……。
参考:ホワイトハウスからスターバックスまで~「強者」による「弱者」迫害と、自浄努力
こうした事件が起こるたびに大きく報道され、とくにスターバックスの件は全米8,000店を半日休業して人種教育をおこなうほどの騒ぎとなった。それでも同様の事件は続き、つい先日、サンフランシスコにて、自宅前でボトル入りのミネラルウォーターを売っていた8歳の黒人少女が、近隣住人の白人女性によって通報された。
アメリカでは子供が戸外でレモネードなどを売ることは伝統であり、教育的見地から推奨もされる。厳密には法に触れるとしても、とくに自宅敷地内であれば警察も動かない。それを十分に知りながらなお、女性は通報した。通報する際の姿が少女の母親によって録画され、ネットにアップされた。たちまち非難が巻き起こり、女性は自身が立ち上げたペット用医療マリファナ会社のCEOを辞任することとなった。
この件では幸いにも少女も母親も逮捕されず、警官とのもみ合いによって殺されることもなかった。逆に通報した女性が社会的に罰せられた。しかし、8歳の黒人少女の些細な行動を、地位も財産もある白人女性がわざわざ警察に通報するメンタリティは、いったいどこから来るのか。
これを知るにはアメリカの黒人奴隷制度と、それに続く歴史を知る必要がある。
奴隷制度とは、なんだったのか。

背中一面に鞭打ちの跡が残る奴隷、ゴードンの写真。1863年撮影。
かつてアメリカに黒人奴隷制度があったことはよく知られるが、いつからいつまで、どのようにおこなわれ、奴隷はどう扱われたのか。さらに奴隷制度終焉後の黒人はどうなったのか――これらは日本ではあまり知られていない。だが、この歴史こそが現在のアメリカの人種問題の根底に大きく横たわっている。
アフリカから誘拐された人々が奴隷として強制連行されたのはカリブ海諸島が先であり、北米(現在のアメリカ合衆国)ではやや遅れて始まる。1619年、バージニア州ジェームズタウンに20人のアフリカ人が連行されたのが始まりだ。この後、アメリカ各州が次々と奴隷制度を敷き、南北戦争が終結した1865年の奴隷制廃止まで続く。
奴隷としてアフリカから「出荷」された人数は正確には分からず、1,200万人とする説から、大西洋を渡る奴隷船の中での大量の死亡者も含めると5,000万人とする説まである。いずれにせよ圧倒的多数がカリブ海諸島と中南米に連れて行かれ、北米に連行されたのは50万人とされている。
以下、これが自分、もしくは自国民に起こったことと想像してみるといいかもしれない。
西アフリカや中西部アフリカの村でごく当たり前に暮らしているところを、ある日突然、何者かにさらわれ、殴られ、鎖で繋がれ、人間の倉庫のような場所に連れて行かれる。セネガルの沖合に浮かぶゴレ島には「奴隷の家」と呼ばれ、現在は世界遺産となっている奴隷の積み出し拠点があったのだ。
ここから奴隷船に乗せられると、もうアフリカに戻ることも、家族に再会することもできない。「奴隷の家」が「Door of No Return(戻ることのないドア)」とも呼ばれる所以だ。
奴隷たちは奴隷船の船底に鎖で繋がれたまま横たえられる。お互いの間に隙間はなく、オイルサーディンの缶詰状態だ。排尿排便はそのまま垂れ流し。最悪の衛生状態の中、病死者が多発し、死体は海に投げ捨てられる。粗末な食事の時間だけデッキに出されるが、その際に謀反を起こすも取り押さえられ、見せしめとして惨殺される者、絶望して船から海に身を投げる者もいた。
3週間もしくはそれ以上の期間をかけてアメリカに到着すると、奴隷市場でセリにかけられ、農場に売られていく。以後、そこで死ぬまで奴隷として働き続ける。農作業がはかどらなかったり、さらには逃亡を企てて捕まると鞭打ちや、時には足の先を切り落とすといった罰を与えられ、殺されることもあった。
奴隷同士で結婚して子供が生まれると、子も奴隷であり、奴隷主の所有物として親から引き離して他の農場に売り飛ばされることもあった。
女性は奴隷主にレイプされた。黒人と白人の混血の赤ん坊が大量に生まれたが、黒人奴隷として育てられた。現在、奴隷を祖先に持つアメリカ黒人のDNA解析をすると、ほぼ必ずヨーロッパの血が混じっている理由だ。
こうした奴隷制度は約250年間続き、1865年に終わる。しかし、ここから黒人への新たな人種差別が始まることとなる。奴隷制度の終焉と同時にKKK(クー・クラックス・クラン)と呼ばれる白人至上主義団体が生まれ、自由人となった黒人への苛烈な虐待をおこなった。
アメリカ南部諸州ではジム・クロウ法という人種差別法が制定された。黒人は白人と同じ学校に通えず、同じレストランでの食事もできず、水飲み場さえ貧相な「黒人専用」を使うことを強要された。バスの座席も白人優先。黒人と白人の結婚も当然のように禁止された。これら全て、違反すると処罰の対象となった。
この時代、黒人への激しい差別が吹き荒れ、リンチ殺人が多発した。殴打、銃殺、刺殺などされた黒人が木からロープで吊るされ、さらに身体を焼かれることもあった。リンチは一種の娯楽、風物詩ともなり、女性や子供も見物した。遺体の記念撮影がおこなわれ、目を覆いたくなる無残な写真の数々が今も残されている。
この非人道的な人種差別を撤廃するために生まれたのが公民権運動だ。1950年代半ばより始まったが、人種の平等を決して認めない差別者からの反発が激しく、運動のリーダーとして最も有名になったキング牧師だけでなく、多くの黒人運動家が襲われ、または暗殺された。さらに白人の支援者も「Nワード・ラヴァー(黒人を好む白人)」として容赦なく殺された。
このように公民権運動は大変な苦難を伴うが、1964年についに公民権法が制定される。これによりアメリカ合衆国は、ようやく人種差別を法的に全廃したわけだが、奴隷制の終焉から100年もの年月が経っていた。かつ今からわずか54年前のことであり、公民権法制定以前の時代を知る高齢者も、その多くがいまだに健在だ。
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