劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンターテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。
どんなに恵まれているように見えるひとでも、心の傷やコンプレックスを抱えているものです。すべてのひとがそれを乗り越えられる強さを持っているわけではなく、なんとか折り合いをつけて生きていかなくてはいけないのが世の中。
薬物の依存症や戦争で負ったトラウマというヘビーな現実を抱えて、それでも前を向いて生きていこうとする姿を切り取った作品が、現在上演中の「WATER by the SPOONFUL ~スプーン一杯の水、それは一歩を踏み出すための人生のレシピ~」です。
「WATER~」はアメリカの劇作家キアラ・アレグリア・ヒュディスの代表作で、ピューリッツァー賞を受賞した翻訳劇です。舞台は、イラク戦争後のアメリカ。プエルトリコ系の帰還兵エリオットは戦場で受けた傷がもとで右足に歩行障害を負いながらも、母親思いで快活な好青年ですが、戦場で手にかけたイラク人の幻覚に、人知れず悩まされています。
あるサイトのチャットルームに集まる、人種も職業も異なるひとびと。彼らは皆、薬物の依存症で、それぞれ面識はなくハンドルネームしか知らないながらも、互いに励ましあいながら、中毒から抜け出すことを目指しています。サイトの管理人である「俳句ママ」に公務員の「あみだクジ」、日本からの里子である「オランウータン」という常連メンバーのところに、富裕層の白人である「ミネラルウォーター」が新規にログインしてきたことで、バーチャルだったはずの彼らの関係が変化していきます。
現実世界とは、別人格
エリオット役を演じているのは、歌舞伎俳優で若手女方として活躍している尾上右近。エリオットは過去に実母の不注意により妹を亡くしており、それ以来、育ててくれた人格者の叔母のことを母親として慕っています。
彼と疎遠になってしまった実母が、サイトで「俳句ママ」を名乗っているオデッサ。演じているのは、現代劇の女方として活躍する篠井英介という、大変興味を引く配役です。
「俳句ママ」は激高したメンバーの口汚い書き込みを削除して回り、チャットの秩序を守るだけでなく、メンバーの身の上を親身に心配し、それぞれが立ち直るための具体的なサポートを紹介するなど、包容力と慈愛にあふれる人物です。しかし息子のエリオットに言わせれば、「チャットの中では別人」。
複雑さと歪みを持ちながらも品を失わないオデッサの造形は、女方という規格外ぶりだからこそ生み出せるものでした。一方そんな実母を忌避しながら、エリオット自身も心身の痛みから逃れるため、戦場でふんだんに処方された医療麻薬にひそかに依存しています。
チャットでは皆、本音で語りあいながらも、小さなウソをついています。自分と会わないほうが子どものため、と言っていた「あみだクジ」は、実は息子に会いにいき冷たくあしわられたことがあり、週末に決めた量を吸うだけでハマっていないと説明した「ミネラルウォーター」は、すでに2年間ヘロイン使用している常習者です。
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