巨星墜つ、「劇団四季」浅利慶太が死去。演劇界での多大な功績の裏には、有名俳優へのパワハラがあった。

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彼なくしていまの演劇界はありえなかった。浅利演出事務所より

 劇団四季の元代表で演出家の浅利慶太氏が13日、悪性リンパ腫のため死去していたと報じられた。ミュージカルや演劇に興味がなくても、「劇団四季」「浅利慶太」の名はほとんどのひとが一度は耳にしたことがあるであろう。日本の演劇界に多大な功績を残した偉人であり、平成最後の夏にまさにひとつの時代の終わりを告げた死だった。

 が、そのカリスマ性とリーダーシップは、一方では「慶太天皇」とあだ名されるほどの絶大な権力となり、横暴さも併せ持っていた。

 現在ではブロードウェイの大作ミュージカルを日本で上演するカンパニーとして知られる劇団四季だが、もともとはジロドゥやアヌイなどのフランス演劇を上演する学生劇団として始まった。

 1953年、慶応大学在学中に劇団四季を起ち上げた浅利氏は当初から、役者もスタッフも生計のためにアルバイトする必要なく演劇だけで食べられる仕組みを追求。石原慎太郎との交友関係や、劇団創設時のメンバーの親族が後に首相になる佐藤栄作と親しかったことなどから、政界や財界に深いつながりがあり、1983年、専用劇場を構えてブロードウェイミュージカル「キャッツ」を日本で初めて無期限ロングランにこぎつけ、以降劇団四季をスタッフも含めた劇団員が約1300人、年間公演数約3000回という日本最大の劇団に育て上げた。政界や財界との交流から、首相の魅せ方の演出やブレーンとしても活躍、また日生劇場や新国立劇場の設立にもかかわっていた。

 劇団四季は、鹿賀丈史市村正親石丸幹二など舞台だけでなく幅広く活躍する俳優や、それを支えるスタッフなど優れた人材を多数輩出。「美女と野獣」や「ライオンキング」「オペラ座の怪人」などのブロードウェイミュージカルが、日本全国のどこでも本場と同じようなクオリティで楽しむことができるようになった。

絶大な権力でトップ俳優を「干す」

 日本にミュージカル文化が根付いたのは、間違いなく浅利氏の強烈な才覚、先見性によってもたらされたものだ。

 そうして日本の演劇界の発展をけん引するとともに、浅利氏の下には絶大な権力も集まっていった。組織の絶対的なトップである浅利氏の意に沿わない相手は、どんな功労者であろうとも、ハラスメントとしかいえない仕打ちを受けている。周囲の意見を聞かないその独裁者ぶりから、演劇やマスコミ関係者からは陰で、慶太天皇と揶揄されていた。

 テレビなどで鹿賀丈史らの劇団四季時代に触れる時、「劇団四季のトップスター」という紹介がされることが多いが、厳密にはこれは誤りだ。劇団四季は安定した興行収入のために、主役を演じる俳優の知名度に頼るのではなく、誰が演じてもレベルの高いものを追求。「四季メソッド」といわれる徹底的な発声法に代表される、厳しい俳優教育がそれだ。だからこそ、観客はいつでもどこでも、同じクオリティの作品に触れることができるのだが、そのために浅利氏は、「スターは作らない」ことを理念としていた。

 それでも、ときに突出して観客を惹きつける俳優が現れる。いまや東宝が主催する大作や話題作にはかかせない主役級のミュージカル俳優、山口祐一郎がそのひとりだ。

 ダンスが不得意なため劇団四季のオーディションに一度は落ちたものの、浅利氏自身に声をかけられ入団し、「ジーザス・クライスト=スーパースター」や「オペラ座の怪人」に主演するなど活躍した。サービス精神が旺盛でほがらかな人柄から、ファンとの交流にも積極的だったが、それが「スター」を認めない浅利の逆鱗にふれた。

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