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相撲部屋、日大アメフト、伊調馨など相次いだスポーツ界のパワハラ告発
元横綱日馬富士が平幕貴ノ岩を暴行し、ケガを負わせた問題と、それを巡る相撲協会の対応。日大アメフト部による悪質タックルを招いた選手への内田前監督による指示。女子レスリング伊調馨選手に対するパワハラ問題など、スポーツ界では次々と、上に立つ者からの不適切な指示によるパワハラが発覚した。
かつてなら問題視されないどころか、当然視すらされていた可能性のあるいくつもの事件。今はそれが表面化し、糾弾を受ける。そこには時代の流れが生んだ、「指導の不透明感」を許さない環境が整いつつあることが関係しているようだ。
誰もが指導風景を投稿できる時代が、指導者の評価を世間に委ねる方向に
指導者の絶対君主化は今に始まった話ではない。“名門”と呼ばれる高校や大学の運動部の指導者は、輝かしい実績はもちろん、主要大会のメダリスト、誰もが知る一流選手を輩出してきた。
その目に見える成果こそ、指導者の評価軸となり、その指導方法を疑うことなく有力選手が集まるゆえんだ。ネットが普及していない時代は、どんな指導方法が実践されているのか広く伝わりはしなかったし、選手自身もそのやり方で本当に効果があるのか、是非を知る術は乏しかった。結果を出している指導者がすべてであり、そのトレーニングに従うことで結果が出るという主従関係において利害の一致が得られていたからだ。そのため殴られ蹴られ走らされたとしても、それは「体罰」ではなく「指導」と選手は自分を納得させてきた。
しかし時代は変わり、ネットの存在が一つの指導方法に対し、あらゆる視点で見つめ直すきっかけを作ってくれたことは明らかだろう。今まで心の中でしか疑問を抱けなかった選手たちは匿名・実名に関わらず、ネットに投稿し、その是非を世間に問うことができるようになった。
拡散を恐れる指導者、さまざまな意見を知る権利がある選手
もちろん全てのスポーツ指導者がそうというわけではないが、一部の指導者はネットで自らの指導方法や発言を拡散されるのを恐れているのではないだろうか。自分の指導方法が論理的でなく、根性論を振りかざす不透明な指導であると世間に暴かれてしまう可能性があるからだ。根性論を武器にする指導者は、弱者である選手に「なぜ」「どうして」を考えさせない。
そこには完璧な主従関係を成立させるべく、選手をイエスマンに仕立て上げたい思惑も隠されているのではないだろうか。思考停止を余儀なくされた選手は、体罰に苦痛を感じながらも、結果を残す手段の一つだと洗脳されていく。選手の小さな疑問はねじ伏せられ、有無を言わさぬ組織が指導者によって構築されていく。
そんな指導者の思惑とは裏腹に、今の選手にはSNSやネットで調べ、疑問を共有できる場所がある。同じような疑問を抱いている人はいないのかと、さまざまな意見を知ることで選手の疑問は確信に変わる。選手の知る権利はパワーで制圧してきた多くの指導者にとって脅威であり、邪魔な価値観とでも思っているのではないだろうか。
桐蔭学園サッカー部で起こった監督に対する選手の反逆
昨年、元サッカー日本代表、現解説者の戸田和幸氏や、同じく元日本代表でこの6月までJ3・ガイナーレ鳥取の監督を務めていた森岡隆三氏を輩出した桐蔭学園サッカー部で、監督による選手へのパワハラ問題が起こったことを覚えているだろうか。2015年に監督に就任した李国秀監督は、選手に対して「お前は使えない!グランドから出ていけ!」などパワハラ言動を頻繁に繰り返していたという。
李国秀監督は、自分が集めてきた1・2年を中心としたメンバー構成にチームを入れ替え、3年生を2軍にしグラウンドも使用させずにチームを分離させた。しかし3年生はこの環境に屈することなく、練習に取り組み、学校側の介入もあり選手権予選を2軍(3年生)と監督代行で戦い見事全国出場の切符を手にした。
3年生は試合後、Twitterを通じて名指しで監督への怒りを投稿し、大きな話題となった。そこにあったのは、何の論理もない指導者に対する、選手の異議申し立てである。そして、それは指導現場の実態を世の中に委ねる相互監視状態を作りあげた。
論理をもたない指導者は、自分の知らないところで丸裸にされ、淘汰されていく
すべての指導者が「教え導く者」であってほしいというのは理想だが、残念ながらその立場を利用した弱者いじめを遂行している現状がスポーツ界で蔓延している。そこには過去の実績、メダリストや代表選手を輩出してきた過去の遺産の切り崩しから脱却できない指導者の存在が大きい。
今の時代に合わせた指導方法にアップデートしない指導者が、選手の成長に歯止めをかけている事実は見逃すことができない。時代が変われば選手も変わり、選手が変われば指導方法も変わっていくのが社会の流れに即したあり方であるはずだ。
古い根性論、体罰による指導を受けても、選手は「なぜ」「どうしてなのか」を指導者に聞くことさえ許されない環境にあったが、今ではネット上の有識者や経験者、広く世間に意見を求め、指導の本質はどこにあるのか問うことが可能だ。
今後そう遠くない未来に、練習や発言に論理をもたない指導者は、自分の知らないところで丸裸にされ、淘汰されていくだろう。氷山の一角であるスポーツ界のパワハラ問題は、雪崩れのように暴かれていくことは、ネットが普及した今日では道理だ。もちろん「そんなことをしたら、スポーツ自体を継続出来なくなる」と選手が恐れるほどの恐怖政治がまかり通っている現場もあるだろうが、それほどまでに容赦のない環境が健全といえるわけがない。
求められる組織のアップデートと、フラットなコミュニケーション
これはスポーツに限った話ではないが、組織に求められていることが加速度的に変化しているなか、変化を拒む指導者の居場所は急速に失われていく。すでに過去の実績・成功が示してきた指導は負の遺産になり、指導者が指導方法をアップデートしなければ評価を得ることはできない。
スポーツの現場においては、指導者と選手とのコミュニケーションの取り方が、体罰や根性論ではもはやまかりとおらず、抜本的な見直しが急務となるだろう。本来、取るべきコミュニケーションは選手それぞれの思考を育てるために、指導者と選手で行う言葉のキャッチボールが基本となるはずだ。
指導者の投げっぱなしの言葉はコミュニケーションではなく、単なるボスによる命令でしかない。今後スポーツ界の指導者に突きつけられる問題は、過去の遺産による自らの指導方法を自ら否定し捨て去ることができるかどうか。
過去の指導方法を否定し、目の前にいる選手それぞれと適切で丁寧なコミュニケーションを取ることは、実際、容易ではないかもしれない。そこには上下を重視した指示ではなく、選手の立場で考えられるフラットなコミュニケーションが必要であり、主従関係に陥らない関係性を築くことになる。そんなやり方は知らない、自分には経験がないからわからない、と戸惑う指導者も少なくないのではないだろうか。
暴力や恫喝によらない適切な指導方法やコミュニケーションとは何か。まずそのことを学ばなければいけないかもしれない。