『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない

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『ヒプノシスマイク』公式サイトより

 『ヒプノシスマイク』と差別表現をめぐって、ネット上で議論が起きている。『ヒプノシスマイク』とは、男性声優がキャラクターになりきってラップをするキャラクターソングとボイスドラマが収録されたCDのシリーズである。メインターゲットはオタク女性だ。第一線で活躍するプロのラッパーが曲提供した聞き応えのあるラップと魅力的なキャラクター造形で人気になり、最新作はオリコンで首位を獲得した。

 しかし、ボイスドラマの中にはミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア (同性愛蔑視)と受け取れる表現が含まれており、批判が起きた(参考:「ヒプノシスマイクが怖い話」)。また批判に対して「嫌なら見るな」「フィクションと現実は別」などの反発も相次いでいる。

 実際にボイスドラマの内容を引用してみよう。

「てめーら俺の前で「だって」とか「けど」なんてカマ野郎みてえなセリフ吐いてんじゃねえよ」(「ヒプノシスマイク Buster Bros!!! Generation」Drama track1)
「クソ女どもに尻尾ふらなきゃなんねぇとか虫酸が走るな」(「ヒプノシスマイク Buster Bros!!! VS MAD TRIGGER CREW」Drama Track[Know your Enemy side B.B VS M.T.C.])
「カビの生えた話はそこらにいるクソ女の(ピー)にでもぶちこんどけ」(同上)

 ボイスドラマの中にはこうしたセリフが何のエクスキューズもなしにあらわれる。

「女尊男卑」社会なら差別用語は許されるか

 ただ、『ヒプノシスマイク』の差別表象問題は、これら一連のセリフだけ抜き取って批判するだけで済ませるのは不十分だ。ストーリーの特質上、作品の文脈が非常に複雑化しているのだ。2017年10月20日当時の公式サイトに掲載されていた舞台設定を、以下に引用する。

<H歴。武力による戦争は根絶された。勿論、そこには多大という言葉ではくくれない程の犠牲を払ったのだ。野蛮な男性に変(ママ)わり、女性が覇権を握ることになる。中王区と呼ばれる、男性を完全排除した区画で政は行われるようになった。そこで新たな法が制定された。その名もH法案。人を殺傷するすべての武器の製造禁止、及び既存の武器の廃棄。しかし、それだけでは愚かな男性の争いは根絶されない。なので、争いは銃ではなく人の精神に干渉する特殊な【ヒプノシスマイク】にとって変わった。言葉が力を持つことになったのだ。そして争いに親和性のあるラップを使い、優劣を決する世界になった。男性は中王区外のシンジュク・ディビジョン、シブヤ・ディビジョン、イケブクロ・ディビジョン、ヨコハマ・ディビジョン等の区画で生活をすることになる。各ディビジョン代表のMCグループがバトルをし、勝った地区は決められた分の他の領土を獲得することができる。これは、兵器ではなく言葉が力を持つことになった世界で紡がれる男たちの威信をかけた領土バトルなのだ。>

 「野蛮な男性に変(ママ)わり、女性が覇権を握ることになる」という一文だけをみても、男と女しかいないという「男女二元論」が前提となっている点や、「野蛮な男」「愚かな男性」と男性を定型化している点など、少なくない疑問が浮かぶ。なお現在、この序文は大幅に修正されており、この一文の内容に該当する文章も削除されている。

 いずれにせよ、女性が全ての政治を牛耳っている「女尊男卑」社会を舞台に、男性キャラたちが「ディビジョン」という地域ごとのチームを結成し、ラップでテリトリーバトルと呼ばれる領土争いを繰り広げている……という設定が、議論をいっそう複雑なものにしている。

 なぜなら、作中に出てくる「カマ野郎」「クソ女の(ピー)」などのセリフが、現実=男性中心主義社会=ではなく、ヒプノシスマイク世界=女性中心主義社会=の中で発言されているからである。

 「そういう舞台設定なら差別語を言われてもしょうがないよね」と言えるだろうか?

フィクションは現実の中にある

 筆者は、フィクションの中で行われる差別表現について、現実に対する批評性の有無で判断すべきであろうと考えている。

 例えば、Netflixのオリジナル映画『軽い男じゃないのよ』は、ミソジニーを体現した男性が突然男女の社会的地位が逆転した世界に放り込まれる作品だ。「女尊男卑」になったフランス社会で、主人公は「必要とされているのは女らしいユーモアだ」と性別を理由に企画を却下されたり、「男なのに子どもを持たないなんて」と驚かれたりする。オフィスにいる社員はほとんどが女性で、お茶汲みは男性の役割だ。

 男女を逆にしたことで、普段女性が置かれている立場の弱さや女性差別の理不尽さを、改めて浮き彫りにしている作品だと言えるだろう。

 一方、『ヒプノシスマイク』の社会で「女尊男卑」として挙げられている具体的な内容は、主に二つある。一つは男性が女性の10倍課税されること、もう一つは女性だけが集住して政治を行い、男性がそこから放逐されていることである。それ以外は特に説明がなく、例えば勤務医・正社員のキャラクターやその男性上司も出てくるし、職業の不自由などは描写されない。男性の医者に対して女性の看護師、というジェンダーステレオタイプな描写も登場するし、丁寧な言葉遣いをする女性の給仕係に対し、タメ口で応答する男性客、という構図も現実と変わらない。現在のジェンダーバイアスについて深く考えて反転させた内容であるとは思えない。

ファンに重ね合される女性キャラクターたち

 また、作中に出てくる名前のある女性キャラクターは勘解由小路無花果(かでのこうじ・いちじく)の一人だけである。彼女は現政権のナンバー2という設定で、警察権力を牛耳り、テリトリーバトルを仕切る立場にいる。「所詮は男か」などと男性キャラクターを見下し、男性キャラからも「女め」と敵意をむき出しにされる。

 彼女以外に登場する女性を全て挙げてみよう。女性恐怖症のホスト・伊奘冉一二三(いざなみ・ひふみ)に懸想して彼を殺そうとするストーカー、医者・神宮寺寂雷(じんぐうじ・じゃくらい)の病院に勤務する看護師、「モテるが特定の相手は作らない」デザイナー・飴村乱数(あめむら・らむだ)の「不特定の相手」たち、中王区のホテル内にあるレストランで働く給仕係、そして中王区で男性キャラを追いかけ回す女性の群衆だ。全員名前はなく、セリフもごく少ない。

 つまり、現時点でストーリーに参加している女性は「敵」「モブ」「敵のモブ」の三種類だけなのである。

 最新のCDには、実際に作中で中王区の女性が使う投票用紙が挿入され、ファンの投票でテリトリーバトルの勝敗が決まるようになっている。「敵」「モブ」「敵のモブ」にファンを重ね合わせているのだ。好きなキャラクターを応援したいだけなのに、なぜこんな悲しい立場に己を重ねなければならないのだろうか。先ほど引用したセリフも、男性キャラたちを「消費」する側としての女性が男性キャラから激しくなじられる構図になっており、後味は悪い。

「女尊男卑」の意図はどこにあるのか

 かっこいい男性キャラが、ヒップホップというカウンターカルチャーを背負って社会に反旗を翻す様子を、「女性向けコンテンツとして」描きたい。今作は、そういう姿勢で作られた作品なのではないかと思う。

 それ自体は魅力的な試みだ。現実のヒップホップはミソジニーやホモフォビアが目に見える形で表現されることが多く、女性にとってとっつきやすい文化だとは言いづらい。バトルでは差別的な言葉が飛び交っているし、女性が酒や金や麻薬と並べられて勝利者の性的財産として用いられている曲は無数にあふれている。ラッパーの椿へのインタビューや、あっこゴリラと荻上チキとの対談でも話題になっているように、内部から声を上げるプレイヤーはいるものの、女性としてシーンに関わる困難さは解決されていない。これらの問題をフィクションの中で除去し、「安心して聴けるヒップホップ」を作ってくれるなら、それは一つの救いだろう。

 しかし『ヒプノシスマイク』は「反体制文化」をまとった男性同士の反発/連帯を描くために、「女性をパブリックエネミーにする」という選択肢が、いわば「ネタ」として無邪気に選ばれたにすぎなかった。女尊男卑設定が、差別表現の正当化に用いられたのである。制作側の誰もこの設定のグロテスクさには異議を唱えなかったのだろうか。自覚してやっているとすれば悪意があるか物語設計が非常に下手かのどちらかだし、無自覚にやっているとすればさらにたちが悪い。現実社会の問題を何も認識していないのと同じだ。

 『ヒプノシスマイク』には第一線で活躍するラッパーが数多く関わっており、現実のヒップホップカルチャーとの接続は明らかである。コンテンツとしても本格的なラップであることを一つの売りにしており、「ベタ」性がない、とは絶対に言えない。

 ミソジニーに晒されながら現場で抵抗を続けるヒップホッププレイヤーがいる一方で、現実の「ミソジニーのあるヒップホップ」を安全圏から表象だけ流用し、「ネタ」という体裁で正当化するのは、あまりにも不誠実ではないだろうか。

「政治的に」カルチャーと向き合う

「ジェンダーの問題を押し付けられると、水を差されたような気持ちになる」
「割り切って楽しんでいるだけなのに、私は差別に加担する悪者ということなのか」

 『ヒプノシスマイク』についての批判がでたあと、このような内容のコメントが散見された。

 『ヒプノシスマイク』のジェンダーについて一切問題ないと考える人や議論を避ける人を「悪」だとは言わない。作品に救われること自体は決して「間違い」ではない。ただ、「議論する」ことも「議論を無視する」ことも、それぞれ一つの政治的立場なのだという認識は必要だ。

 ここでいう政治とは、狭義の政治――例えば、ニュースサイトの「政治」カテゴリで語られている話題――ではなく、広義の政治――人間集団における意思決定のための全ての営み――である。

 この世に政治的でないものなど存在しない。言及する人間の自由も言及しない人間の自由もあるが、まっとうな批判を黙らせる「自由」はない。おそろしいのは全てが無批判に進むことである。今すぐに変化しなくとも、懸念を示し続けることでこの先に生まれてくるコンテンツがもう少し配慮された内容になるのではないかと考えている。筆者も一人の『ヒプノシスマイク』ファンだ。作品が魅力的であるからこそ、批判すべき部分を看過したくない。全ての文化は政治的であり、文化に向き合う行為もまた政治的であると、繰り返し主張しておきたい。

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