『死んでしまう系のぼくらに』が55歳男性のデビュー作だったらきつい(穂村)
枡野 それでさっきの話にもどすと、お父さんがほんとは生きてるのに、お父さんが亡くなったという短歌の連作を書いて、『父親のような雨に打たれて』でしたっけ、それで短歌賞を取ってしまった人がいて(枡野注/短歌研究新人賞受賞作「父親のような雨に打たれて」は石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』収録)。実際にはお父さん、元気だったと。でも、その賞の選考委員の人たちはお父さんは死んだと思っていたと。この件は(穂村さんは)どう思ってらっしゃるんですか?
穂村 さっきの『ハッピーアイランド』と同様に、その時の選考委員も僕はやってたんだけど……
枡野 はい。
穂村 虚構の許容度って文体とセットで決まってくると思うんだけど、震災とか人の死とか、現実の事象が重ければ重いほど、ハードルが上がってくるって気がしてる。
枡野 はい。
穂村 実際に亡くなったのはお祖父さんだったんだっけ?
枡野 う~ん。
穂村 でもそれもね、本当はそんなこととは(短歌の良し悪しとは)関係がないって、僕の最初の主張からしたら言わなきゃだめなんだけど。
枡野 はい。
穂村 逆に、いない兄を歌うとか、いない妹を歌うとかのレベルもあるよね。
枡野 寺山修司とかですね。
穂村 うん、平井弘とかね。いない兄と言いつつ、その兄が戦争で死んだとかいうことになっていたら、じゃあNGなのかっていうと、それは、自分がぎりぎり疎開世代で、その何歳か上の人たちがみんな出陣して死んだ場合、兄たちなるものたちを代表させて兄と呼ぶことは有りだと思うわけ。
枡野 ああ……
穂村 妹というのも「年下の親愛なる者」という意味があるからね。その意味で架空の妹を歌うということは、年下の女性への思いを妹に託してもOKだという感じはあるわけね。
枡野 はい……
穂村 同じ人の死を歌っても、そういう文脈とは違う場合、ちょっときついかなと思ったりするわけ。そのことはいつも考えていて、本当は「なんでもありだ」って言いたいんだけど……。『死んでしまう系のぼくらに』って詩集があるよね?
枡野 最果タヒさん。
穂村 最果タヒさんね。あれも「最果タヒ」という名前だけからは性別も年齢もわからないわけで。『死んでしまう系のぼくらに』っていうタイトルがね、例えばそれが55歳の男性の作品だったら、きついと思っちゃうと思うわけ。
枡野 はいはいはいはい。
穂村 で、30歳の男性でもベストとは云えない。
枡野 なるほど。
穂村 できれば、若い女性がいいなと。「ぼくら」だからこそ。
枡野 『やすらぎの郷』の老人たちの『死んでしまう系のぼくらに』とかイヤですもんね。
穂村 それは……逆にありだよね。あとは、<老人は死んでください国のため>っていう有名な川柳の作者が、25歳なのか80歳なのかでは全然……句の意味が……
枡野 変わってきちゃう。
穂村 でも、それでは住んでいる場所や、性別や、年齢や、そういうもので書いたテキストの価値が変わるのを認めるのかということになるのね、僕的には、それは「変わらない」という主張なんだよ。現実の、地上の重力に囚われないんだ、言語は……と。
しかし実際には「価値が変わる」ということを、そんな風に何度も僕は認めさせられてきたから。
枡野 それは枡野によって?
穂村 枡野的な現実によって。「どうなんですか?」と言われるたびに、「う~ん」って唸って、負けを認めてきたんだけど……主張としては(言語は現実や地上の重力から)自由なんだという……
枡野 う~ん。
穂村 枡野さんは、どう?
枡野 あのね、唐突のようなんですけど、あの僕、Tシャツにした自分の短歌でね、<絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい>という短歌があるんですね。その短歌について、僕の嫌いなインテリの人がね、“そう書くってことは、作者は自分のことをノンケと思っているんだろう”って……。つまり、ストレート(なセクシャリティ)の人なんだろうと分析してたんです。
それで僕は、その人は頭いいようにみえて馬鹿だなって思ったのは、ゲイの人だって思うかもしれないじゃないですか? 絶倫のバイセクシャルに変身し……って。だから、その時点で、その人は本当に頭いいようで馬鹿だなと思ったんですけど。
穂村 うん。
枡野 それでね、その短歌を書いたときは、僕は自分のことをストレートの男だと思っていたんです。
ところが離婚後、この本にも書いたように、男の人とつきあおうとしてきて、あんまりうまくいかなかったんですけど、今現在は男性が恋人なんですよ。
そうすると、「あ、枡野さんって男が好きで離婚したの?」っていう、すごく短絡的なこと、むしろそれに乗っかりたいようなことを言われるんですよ。(僕としては自分が)「そうだったんだ、そうだったらよかったな」みたいな。
だけど、それで今僕が「男性が恋人です」って公言して<絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい>という短歌を詠んだときに、まるで意味が変わってしまうじゃないですか。
そういうことにどう落とし前をつければいいのかっていうことに、常に後ろめたさを覚えていなければいけないっていうのが、僕の短歌への接し方ですね。
だから、自分の短歌は自分と離れたところで読まれたいからTシャツとかにするんだけど、だけど最後に、「枡野さんがこう書いたのはどんな根拠なの?」と聞かれたときに、ちゃんと自分で、自分の人生に紐づいて背負えるものでしか言わないようにしていて。
でね、こういうと批判みたいに聞こえるかもしれないけど、最近の若い歌人で、現代語で健やかでチャーミングな短歌を書いてる人は何人もいると思うんだけど、そういう人のチャーミングな短歌はほんとに背負ってるんだろうか――と思うことがあるんですよ。
穂村 うん。
枡野 例えば、別に嫌いな歌人じゃなくて好きな歌人なんだけど、木下龍也……くん。
穂村 なんかさっき、そのへんに来てたよ。
枡野 ほんと!? なんか、その、“君の背負ってるものを僕も背負うよ”みたいな短歌があるじゃないですか? 正しくはなんだっけ、“君の悩みも僕は背負うよ”みたいな短歌……。(<立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ>木下龍也)
そういうときに、ほんとにそうなの、と。「本当にあなたは私の背負っているなにかを一緒に背負ってくれるのですか!?」と言いたくなっちゃうんですよ。
で、そこから、そのチャーミングな短歌の若い人たちみんなに、「ほんとにそうなの?」「ほんとにそんなにいっぱい作れちゃうの?」って思っちゃうんですよ。
僕は短歌、少ないんですよ、発表したものは。
そこで、言葉として素敵ならいいのかなって。本当にあなたはその人を背負う覚悟があるのかってところで揺れ動いてしまうんです。
穂村 今はね、枡野浩一も木下龍也も生きてるからね、背負うとか背負わないとか言えるけど、何十年後かには背負うも背負わないもなくなるじゃん、死んでるんだから。
枡野 まあね。
穂村 だけどそれなのに、残った言葉をみると、“この人は背負えなかったのに、生前、背負えると言っている”みたいなことがなぜかわかる。これはなぜわかるのか? 僕も不思議で、知りたいんだけど。ま、わかるような気がするってことなんだろうけど。
枡野 啄木がね、お母さんを背負ってその軽さに三歩歩めなかったのは本当か――みたいなね。
穂村 うん。だから、ややオカルトっぽくなっちゃうんだけど、経験的にわかるような気がするよね、なぜか、確かに。
<続く:第五回は8月9日更新です>
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◆穂村弘
歌人。1962年生まれ。
1990年に第一歌集『シンジケート』で歌人デビュー。2008年に『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞を、『楽しい一日』で第44回短歌研究賞を受賞。2017年に『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞を受賞。著書に『ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi』『世界音痴』『現実入門』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』などがある。2018年に17年ぶりの新歌集『水中翼船炎上中』を刊行。
【枡野浩一からお知らせ】
枡野浩一の小説『ショートソング』の新しい帯をつくることになりました。そこでTwitterで<#ショートソング応援短歌>を募集しています。
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(構成:藤井良樹)
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