マンガ家・喜国雅彦さんと行った東日本大震災への初ボランティアで、私は“開眼”した【西日本豪雨ボランティア体験記・前編】

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1カ月が経過した現在も、ボランティアが不足している広島県坂町。

 2018年7月に多くの被害をもたらした、「平静30年7月豪雨」による災害の復旧のため、被災地では多くのボランティアが活動している。しかしながら、中でも被害の大きかった広島、岡山、愛媛の3県では、平日を中心に慢性的に人手が足りない状況が続いている。

 被災地の復旧のために、ボランティアの助けを求めることには一部に批判の声もあるのは確かだ。本来は国民から負託された税金を使って、国や自治体がきっちりと復旧活動を行うべきだという考え方には、一定の理がある。

 しかし現場の惨状は、被災地から離れた地域の人はなかなか想像しにくい部分がある。消防隊や自衛隊などのプロフェッショナルは、まず道路を埋め尽くす土砂やがれきを撤去し、重機や装備が入れる状態にするための作業で手一杯だ。崩れた崖や、半分以上が土砂で埋まった川などは、これからの台風シーズン前に対応しなければ、新たな被害を生みかねない。

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川の深さの半分以上が、現在も土砂で埋まったまま。

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自衛隊なども必死の作業を行っている。(撮影・福角智江)

 現地では民間の住宅や店舗などの復旧に、公的機関の手が回らなくなっているし、そもそも補助金ならともかく、個人住宅の復旧に「公務員による人手」を投入することには議論の余地もあるだろう。しかし、一度水に浸かった家屋を長い間放置すれば、床や壁は腐り、梁や柱、はては土台や基礎にまでダメージを与えかねない。致命的なダメージを受けていない家であっても使えなくなってしまい、さらには悪臭やカビ、虫や病気の発生原因にもなりかねない。

 そもそも、家屋内に入り込んだ泥をかき出すのは、重機では難しい。スコップを手に土砂をかき出し、バケツリレーならぬ土のうリレーをする、地味でしんどい人力の作業を担える人手が必要なのだ。

 中には2020年東京オリンピックのボランティア問題と混同している人がいるが、天災で困り果てている民間人に対して無償で行う奉仕活動と、スポンサーや放映権者から多額の資金を集めている一大イベントにおける無償労働とは、同じ「ボランティア」という名称でも性格はまったく違う。災害ボランティアは助け合いであり、お金があるのに日当を出さない商業イベントとは比較の対象にならない。

 今回の豪雨災害では、メディアでも新聞記者などによるボランティア体験記が多く掲載されている。どのような作業内容なのか、どういった装備が必要なのかといった、実際にボランティアをするにあたっては参考になる情報も多い。

 だが被災地から遠くに住む人にとっては、まず「ボランティアに行く!」という勇気を出すのが難しいというのが現実的なところだろう。作業内容を理解し、自分にもできると思ったとしても、実際に行動に移すまでには大きな壁がある。その障壁をなんとか取り払い、被災地に向かう人を増やすこともまた、メディアの役割ではないかと思う。

 筆者は今回、7月26日から広島県坂町(さかちょう)の小屋浦(こやうら)地区でボランティアを行ってきた。しかしそんな筆者も、東日本大震災まではボランティアなどまったく経験したことがなかったのだ。本稿では、被災地に行くためのさまざまな心の葛藤を取り払う方法を、自省を込めて考えてみたいと思う。

あの有名マンガ家・喜国雅彦が、泥にまみれている

 筆者が初めてボランティアに行ったのは、2012年の9月。東日本大震災から約1年半がたった頃だった。震災当時は東京の自宅にいたが、おそらく首都圏にいる多くの人と同じように、これまでに体験したことのない揺れと、テレビに映る惨状に衝撃を受けた。些少の募金と節電をし、編集者・ライターという仕事を通じて、多少なりとも被災地の惨状を伝えようという努力をした。

 つまり裏を返せば、それ以上は何も行動には移さなかったともいえる。マイカーを所有していたのだから、どこへでも手伝いに行けたはずだし、物資を積んで被災地に届けることだってできたはずだ。しかしそうしなかったのは、なんとなくそれは自分の役割ではないような気がしたからだったと思う。

 そんな私がボランティアに興味を持ったのは、マンガ家の喜国雅彦さんがきっかけだった。以前より親しくさせていただいている喜国さんが、2012年8月に上梓されたのが『シンヂ、僕はどこに行ったらええんや』(双葉社)という、今年のサッカーワールドカップロシア大会におけるサッカー日本代表・本田圭佑選手のセリフかと勘違いしそうなタイトルの本だった。

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喜国雅彦著『シンヂ、僕はどこに行ったらええんや』(双葉社)

 もちろん中身はサッカーの解説本ではなく、喜国さんたちが体験した震災ボランティアの経験を綴ったエッセイだ。表紙で犬を抱えているのが表題にある「シンヂさん」という人物であり、関西で建設会社を経営しているオッサンだ。彼は、大阪に本社のあるアウトドアメーカー「モンベル」とそのユーザーが中心の任意団体「アウトドア義援隊」として活動し、震災直後から何度も自主的に被災地での支援活動をしていた。

 学生時代は一貫して文化系で、仕事もずっと出版関係で屋外作業とは無縁だった筆者は、体力も筋力も、一般的な成人男性より一段劣っているという自覚があった。何より肉体作業がイヤだった。ボランティアに興味が持てなかったのも、疲れる作業をしたくなかったからだ。

 傲岸不遜と思われそうだが、自分が被災地の役に立つ方法は、ほかにあるのではないか。泥をかき出し、それを土のうに詰め、一輪車で運ぶような作業は自分にはふさわしくないのではないか。メディアの力を使って、より多くの人に被災地の現状と課題を伝えることのほうが重要なのではないか。そのように考えていた。自分の持てる力を効率よく、最大限に使うべきではないか。時間がたって復興が進んだら旅行でもして、お金を落とせばいいのではないか。

 しかし自分が学生の頃に愛読していた「週刊ヤングサンデー」(小学館、現在は休刊)や「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で毎週描いていた、あの喜国さんが、地位も立場もあるにもかかわらず(後にエッセイのネタにしたとはいえ)、称賛も見返りも得られないにもかかわらず、被災地で一兵卒として泥にまみれている。ヘロヘロの自分よりも線が細く、体力があるとは思えない、あの喜国さんが、だ。

 失敗談も、役に立たなかった経験もつまびらかに記された喜国さんの本を読み、無性にカッコよく思えた。同時に、効率的だの最大限だのとぬかし、なんの行動も移さずにいる自分が、無性に惨めに思えた。

 初めてシンヂさんと会ったのは、出版直後に行われた喜国さんと書評家の杉江松恋さんによる対談会の席だった。同2012年9月には、喜国さんたちを含め、再び仲間で宮城県東松島市へボランティアに行くのだという。マイカーはあるし、東松島市は震災前に行ったことがあったので、多少の土地勘もある。こうして筆者初の災害ボランティアは、経験者の知人に付いていくという、もっともハードルの低い形で実現したのだった。

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東松島でのボランティア当日のJR仙石線の旧東名駅。現在は高台に移転。

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手前が東名運河。奥は水田だったが、震災から1年半がたっても海のよう。

 そしてその9月がやってきた。我々がボランティアをしたのは、東松島市の“奥松島”と呼ばれる、津波の直撃を受けたエリア。シンヂさんや喜国さんたちは、すでに何度もこのあたりで活動しており、当日の朝はJR仙石線・旧東名(とうな)駅前に集合した。

 まず取りかかった作業は、東名運河の清掃と草刈り。初めは草刈り機を持たせてもらったが、慣れていないので効率が悪い。見かねた仲間が変わってくれると、私の倍近いスピードで雑草をなぎ倒していく。すごく惨めに感じる瞬間だ。おそらく災害ボランティア初体験の人が必ず通る挫折だろう。

 続いて、おそらく田畑だったであろう場所のがれきやゴミの撤去。津波から1年半がたってなお、そうしたものが放置されている場所はたくさんあった。喜国さんが通帳と印鑑を発見する。特例措置で、それらがなくても預金は下ろせるようになっていたはずとはいえ、持ち主の元に戻れば喜んでもらえるに違いない。

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泥の中から発掘されたゲーム機。

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JR仙石線・東名駅と同様に大打撃を受けた同・野蒜(のびる)駅。

 しかし、午後になるとシンヂさんが「石巻に行こう」と言う。被災した旅館が営業再開を予定しており、シンヂさんが名古屋の知り合いから不要になった布団をもらってきたので、届けるのだという。喜国さんも漫画の取材で、すでに石巻に向かっていた。

 ワンボックスカー1台の布団を降ろすのに、それほど人手が必要なわけはない。あえてシンヂさんが連れて行ってくれたのは、おそらく自分が多少なりともメディアに関係している人間だったからだと思う。被災地の現状を見てほしい、機会があればそれを伝えてほしい。そういう思いがあったからではないか。

 翌日はシンヂさんや喜国さんと、宮城県南三陸町まで届け物に出かけた。喜国さんも道中の風景の変化や、以前にボランティアで訪れた場所を細かく解説してくれた。自分の愛読書の内容を、その著者が現場で解説してくれるという実に贅沢な体験をさせていただいた。

 作業が終わればみんなで風呂に行き、夜はバーベキューのあとで雑魚寝。終わってみれば、献身とか滅私奉公といったボランティアのイメージはほとんどない、充実した時間だった。みんな作業の合間には、知り合った人たちと談笑しているし、喜国さんも隙を見て仕事をねじ込んでいる。ボランティアってこんなに自由でいいんだと思えた体験だった。

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