夏が来れば思い出す、子どもにもあやしく思えた「カルト村」での夏合宿

【この記事のキーワード】
SpiYakou108

Thinkstock/Photo by spukkato/Photodisc

 子どもたちの夏休みもぼちぼち終盤でしょうか。我が家はと言えば子どもは保育園、夫婦ともにお盆休みは特にナシという状態なので、特に代わり映えのない毎日ですが、それでも昆虫展を目にしたり、ベランダから花火が見えたりすると「夏休みシーズンなんだなあ」という実感がわいてきます。大人になっても、〈夏休みの思い出〉は特別だという人も多いでしょう。

 ところが私の場合〈夏がくれば思い出す~〉のは、はるかな尾瀬でもひと夏の恋でもなく、〈ヤマギシ村〉の合宿です。ヤマギシ村とは通称で、日本最大のコミューンを作り上げている集団農場のこと。〈理想社会の実現〉を目的とする組織〈幸福会ヤマギシ会〉によって運営されている施設です。WEB連載時から大反響を呼んだという『カルト村で生まれました』『さよなら、カルト村』(高田かや著/文藝春秋)は、その舞台を〈「所有のない社会」を目指すある集落〉と説明されていますが、それはぶっちゃけここのこと。

 ヤマギシ会は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、同種の危ないカルト集団であると批判の目を向けられるようになりましたが、私が合宿に参加したのは1980年代前半。きっかけは〈おいしい卵が買える〉という口コミで、自然派志向な近所の母親たちが集ってヤマギシの農産物を共同購入していたことです。その流れから、〈自然と触れ合える楽しい夏合宿!〉的なふれこみの、ヤマギシ村のイベント「夏の楽園村」に幼馴染とふたり放り込まれたのです。ネットも携帯もなかった昭和の時代。専業主婦であった母たちは、ヤマギシ会が特殊な組織だとは露ほども思わなかったそうです。

ヤマギシ会、とは。

 2000年に発行された『カルト資本主義』(斎藤貴男著/文春文庫)には、ヤマギシ会のこんな解説がありました。(※1997年に発行された単行本が、一部加筆修正されて文庫版になったもの)

「原始共産制共同体(コミューン)」の一形態。資本主義社会の根本原理である「所有」の概念を全否定している

村内では金銭の必要はない。上下の関係もない。すべては話合いの場で決定される
(と言うのはもちろん建前で、組織の都合のいい意見に同調するまで、話し合いから解放されないという話も)

村人たちはあくまで〈自主的〉に、朝6時から夕方6時過ぎまで働く
(衣食住は確保できるが、実質報酬ナシ。のちにわずかな小遣い程度の現金が与えられるようになったよう)

・取材時の案内人の言葉→「我欲がなく、腹のたたない人間ばかり。全員が家族で仲良。一切の競争や対立とも無縁」

・創始者山岸がこの集団を作った経緯→独自の養鶏法を編み出し、ニワトリ社会に理想社会の縮図を見るようになっていった

・「超能力」や「生まれ変わり」を声高に叫びはしないからオカルトの臭いはやや薄いが、宗教性は否めない。創始者が霊的啓示を受けたと言う話も有名で、養鶏普及会発足に至るまで天理教など複雑な思想遍歴を辿っている

・近年は世界救世教にも似たエコ主張を展開している
(ところが作者の調査によると、循環農法を謳いながら、輸入飼料や抗生物質を使用。大量の糞尿で地元に公害を及ぼしたなどのトラブルも相次いだそう)

・「ハレハレ(晴れのち晴れ、楽しいばかりで嫌なことがないの意)」の世界で、「何でも、誰とでも『ハイ』でやれる」子どもが最高だとされる
(要は素直にコントロールされる子ども最高!ってことですね)

・自由恋愛は許されず、生活調整機関が結婚相手を見つけてくる
(ウワサによると、中絶なども世話人が一方的に決めるとか……)

 そして共同体生活の実態は奴隷状態であることや、財産の「寄進」ルールなどの恐ろしい話も続々登場。前出の『〜カルト村』は、「こんな環境で育ったんですよ」という静かなトーンで淡々と語られるものの、手紙の検閲や健康的とは言えない食習慣(当時は子どもも朝ごはん抜きの1日2食)、体罰、マインドコントロールに近い〈話しあい〉、あげくの果てに本人の意思を無視した〈調整結婚〉等、傍から見ればおかしなことだらけ。子どもを支配する親への戒めとして〈子どもは親のものではない〉という言葉がありますが、ヤマギシ会では〈親のもの〉どころか〈共同体のためのもの〉となるよう。これが「理想の社会」というから、なんという闇深い共同体なのか。

1 2 3

「夏が来れば思い出す、子どもにもあやしく思えた「カルト村」での夏合宿」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。