妄想食堂「人は栄養のためだけにものを食べるのではない~「生産性」のない食べものについて」

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 この夏はきゅうりばかり食べて暮らしている。スーパーで売っている、ごろっとした乱切りのきゅうりを浅漬けにして、淡く紫蘇の香りをつけたやつ(300円くらい)を毎週のように買ってしまう。

 毎年のことだが夏は食欲が湧かない。脂とか炭水化物とか、ちょっとでも重たさのあるものは考えただけで胃のあたりがだるくなる。何か水っぽくてさっぱりしていて、少し塩気が効いて爽やかな味のものなら食べたい、それもできるだけ口に入れるまでの手順が少ないやつ、と思うと、だいたいこのきゅうりの浅漬けになる。

 きゅうりには栄養らしい栄養がない、という話がある。ほとんどがただの水だとか、ギネスブックに「最も栄養が少ない野菜」として登録されたとか。せっかく食べても栄養にならないのはちょっと残念だ。だけど、そのせいできゅうりに「役立たず」「食べても意味ないじゃん」という言葉が投げかけられるのは悲しい。私は栄養がなくたってきゅうりが好きだ。あのパリッとした歯ごたえ。たっぷりと水を含んで張りつめた果肉の瑞々しさ。緑の皮の青い香り。夏に疲れた体を、涼やかに通り抜けていってくれるあの感じ。

 栄養がある。健康にいい。生きるためには日々栄養を摂取しなければならないから、こうした要素が重要視されやすいのは当然と言えるのかもしれない。明確に具体的に、何かの役に立つもの。太くて真っ直ぐで、最短距離で目的に向かっていく矢印みたいなものを、私たちは何より重要なものだと思い込んでしまう。だから「生産性」みたいな言葉が人を刺す。もっと迂遠で弱々しくてばらけていて、もしかしたら何の役にも立たないかもしれないものだって、大事にされていいはずなのに。

 たとえば、真夜中に食べるバターを乗せたラーメンとか、明け方に近所を散歩しながら食べるアイスキャンディーとか、やってられない日の帰り道に食べる甘いケーキとか。そういう余計でかけがえのないものたちに慰められ、支えられながら私たちは生きている。栄養を摂るのは生きるためだけれど、ただ何かを味わうのだって生きるためだ。「生きるため」というより、それが「生きている」ということなのかもしれない。

 しかし後日調べてみたら、「きゅうりに栄養がない」というのはどうやら嘘らしかった。たしかにほとんどが水分でカロリーは少ないものの、カリウムやビタミンAが豊富、ほかのビタミン類やミネラル類も少量ながらバランスよく含んでいるとのこと。キューピーのホームページに書いてあった。それはそうとして、ちゃんと栄養あるんじゃん! でも別に、あってもなくてもきゅうりに対する気持ちって変わらないな、と思う。あるならあるで嬉しいし、なければ他のところでどうにかすることもできる。栄養が摂りたかったらサプリメントでも飲んでおけばいいし、カロリーが摂りたかったらそれこそキューピーのマヨネーズ(赤いキャップの方)でもかけておけばいい。世の中には色々なやり方があるのだ。

 今の自分に寄り添ってくれるのはまさしくあなただった。そうやって口に出すことができるなら、栄養とか生産性とか、そんなに大事なことじゃない。夏に食べるきゅうりの浅漬け。もう秋が来てしまうけれど、また来年もお願いします。

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