わたしは「できそこない」? 虐待された女の子が自信をつかむまで

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――虐待を受けた「わたしたち」に残ったものとは? よじれてしまった家族への想いを胸に、果たして、そこに再生の道はあるのだろうか。元・被虐待児=サバイバーである筆者が、自身の体験やサバイバーたちへの取材を元に「児童虐待のリアル」を内側からレポートする。

【本記事は、「サイゾーpremium」にて2017年10月3日に掲載された記事を転載したものです】

連載第3回「“脈絡なくキレる母から逃げた18歳”編」

 大阪で編集者をしているメグさん(仮名・49歳)は、幼いころに両親から虐待を受けていたという。彼女とわたしとの出会いは5年前、池袋のカラオケボックスで開いたサバイバーのオフ会がきっかけだ。華奢な腕で重そうなスーツケースを引きずり、「夜行バスで来ましたわ」と笑うメグさんは、バイタリティの塊そのものだった。

 18歳のとき、メグさんは家族から逃げるために家を出た。その後、彼女は平和な日常を手に入れることができたのだろうか。親との関係は現在どうなのだろう。今回はそんなメグさんに、親の暴力をどう受け止め、「できてしまった傷」とどう折り合いをつけてきたのかについて聞いてみた。

お母さんが、こんなヒドイことをするはずがない

――メグさんは誰からどんな虐待を受けていたんですか?

 母親からは身体的な暴力、父親からは「お前はダメだ」と言われ続けるような精神的なものが中心でした。特に母親がひどくて。たぶん人格的に問題があったんじゃないかな。

――お母さんは、どんな人だったんですか?

 脈絡なくキレる人、何が原因で怒り出すのかわからない人でしたね。たとえば、小学校の自由研究で弥生時代の女性の服装について調べたことがあったのですが、模造紙に描いた服装のイラストを母が見たとたん、「小さい!」って叫び出してビリビリに破いちゃったり。殴る蹴るなどは、物心ついた4歳頃から日常的に受けていました。

――親の「怒りのツボ」がわからないと、子どもとしては回避策がとれないから常に緊張状態ですよね。暴力についてはウチの場合、わたしの成長と共に手段や武器(道具)がバージョンアップしていきました。メグさんはどうでしたか?

 あー、ありましたねぇ。素手からモノを使う暴力になりました。覚えているのは小学5、6年生のとき。理由は些細なことだったと思いますが、母がわたしの頭をセルロイドの分厚い下敷きで思い切り殴って、それが一撃でバラバラに砕けたんです。

 自分の大事なものが壊されたショックと、「お母さんがこんなヒドイことするはずない」というショックで、しばらく起きたことが信じられませんでした。それまでは、殴るといってもグーとかパーだったので。そこからますます母のことがわからなくなって、警戒するようになっていったんです。

――その気持ち、よくわかります……。ちなみに、暴力を振るわれていたのはメグさんだけですか? 誰か味方は?

 ウチは団地住まいで、ほかの家族が家にいるときも殴られていました。決して広い家ではないので父も知っているはずですが、止めてはくれませんでしたね。父は高校教師で後に大学教授、母も看護学校で英会話を教えているような人だったので、娘にも優秀であることを求める……というか、わたしにとても厳しかったんです。母が、わたしとの会話の中でしょっちゅう「恩に着せるわけじゃないけど」と前置きしていたのもあって、「あぁ、自分は仕方なく養われているのかな」と解釈していました。

 逆に5歳下の弟は、すごく溺愛されていましたね。わたしより成績が悪かったのに、叱られているのも見たことがありません。弟は、こちらが殴られているのを黙って見ていたり、母と一緒になってバカにするような態度をとったりしていました。

ホイットニー・ヒューストンが力をくれた

――「長女は虐待されるけど弟は無傷」というパターンは、女性サバイバーからよく聞く「虐待あるある」です。家では四面楚歌だったメグさんの心の支えになってくれたのは、やはり友だちですか?

 それは違ったかなぁ。「自分はできそこない」という意識があったし、小学3年から中学3年頃までいじめにあっていたので、人が怖くて常に「防衛モード」に入っていました。だから、思春期にも腹をわって話せる友だちはいませんでしたよ。休み時間も机に座って本ばかり読んでいる子だったし。

 高校生の頃は、よく無気力状態になっていたんです。でも、洋楽を聴くと元気が出ました。ホイットニー・ヒューストンの「Greatest Love Of All」は大好きでしたねぇ。歌詞の中で <一番大切なのは自分を愛すること> っていうくだりが出てくるんですが、あれを聴くと、「自分の中にこんなエネルギーがあったのか」とびっくりするぐらい力が湧いてきました。

――高校生といえば、わたしの場合は「自分がされていたことは虐待だ」と気づいた頃です。親を憎む気持ちと、そんな自分を醜いと思う自己嫌悪の間で、ずっと葛藤していました。メグさんは両親に対してどんな感情を持っていましたか?

 わたしの場合は、両親を憎んだり見下したりしていて、そこに罪悪感や自己嫌悪はありませんでした。心理学の本をたくさん読んでいたので、「虐待」からの流れとして、子どもたちが当然そういった感情を持つようになることを知っていたんですよね。

アラフォーで男性経験なしというプレッシャー

――「家から脱出したい」という気持ちは起きませんでしたか?

 もちろん、ありました。わたしが15歳を過ぎたあたりから、母親が更年期のウツ状態になって……。暴力は止んだけど、代わりに干渉がすごかったんです。趣味で読んでいる小説のページ数をいちいち確認されたり、子ども部屋のふすまを閉めることも許されなかったりで、常に行動を監視されていました。

 ストレスがたまりにたまった高校3年のころ、「自宅から遠い大学に行けば、一人暮らしができる」とひらめいたんです。親が満足する偏差値の学校を探して受験しました。でも、実家から離れても、やっぱり親の干渉は止まらなかったんですよね。「こんなんなら意味ないや」と気力を失って中退してしまいました。そこからは実家には戻らず、派遣事務とか食品工場とかいろいろ働いて食いつなぎました。

――挫折の理由ひとつとっても、虐待が絡んでいると知り合いにはなかなか説明しづらいですよね。ほかに、生きづらさを感じていたことはありますか?

 20代前半は、他人から批判されるのが怖くて、友人の前でも手が震えていました。飲み会では「アル中」疑惑を持たれたこともありましたよ(苦笑)。あと、男性ともちゃんと付き合ったことがなくて。正直、あっちの経験(肉体関係)もなかったんです。好きになるのは、なぜか父にそっくりな「人にダメ出しをするような性格のキツい人」で、その人の前では自分が被害者みたいな振る舞いをしてしまうんです。

――他人との関係性として、「加害者⇔被害者の構図」は自分にとって慣れ親しんだものだから、自然とそうなっちゃう。

 多分そういうことだと思います。でもそんな卑屈な態度じゃ、好きな人には振り向いてもらえないんです。このまま40歳になっても「未経験」のままなら、女としても“できそこない”になってしまうのではないかって。そう思うこと自体が、ものすごい恐怖でした。

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