失敗したとき、誰が責任をとるのか
道徳の教科書としては、組織の規律が重要だ、ということを教えたいのであろうし、それは極めて重要なことであるから、筆者も基本的にはその立場である。まず、各自に自由な判断を認めてしまうと、利己的な判断をする者が出てくる可能性がある。
送りバントは、犠牲バントともいわれ、自分を犠牲にしてチームの勝利に貢献するものである。誰だって、そんな役割はうれしくない。自分がヒットを打ってヒーローになりたい。しかし、組織運営においては、犠牲バントが必要な場面も数多いのである。
では、利己的な動機ではなく、本当にチームのために考えて、監督と異なる結論に達した場合はいかがであろうか。その場合の判断基準は、「失敗した場合に責任がとれるか」かもしれない。
バットを振ることで、成功すれば自分がヒーローになれる。一方で、失敗すれば、試合に負けてチームの全員が悲しい思いをする。それなら、通常はバットを振るべきではない。しかし、「バットを振らせてください。失敗したら、1年間掃除当番をやりますから」と言えば、監督もチームメートも認めてくれるかもしれない。
もちろん、少年野球の練習試合ならば、ということであって、甲子園の決勝ならば絶対に認められないであろうが。
ビジネスの世界でも、同様である。テレビドラマで「重役の指示と違うことをやれ。責任は俺がとる」といった格好の良いことをいう課長が登場する場合があるが、それで会社に何億もの損失を出したら、辞表を出しても責任を果たしたことにはならないだろう。そうした無謀な指示は出すべきではない。
あとは、重役と課長のどちらに従うか迷う哀れな平社員がどうすべきか、であるが、これは難しい。何が正しいかは一義的には決まらないので、それこそケース・バイ・ケースであろう。
「評論家」に頼るな、自分を信じろ
さて、世の中には「評論家」が大勢いる。「自分の頭で考えて行動しろ」というと格好良いし、拍手をしてもらえるかもしれない。「自分こそ、頭の固い大人たちの味方ではなく、頭の柔らかい若者の味方である」といった振る舞いもできる。
しかし、それを真に受けて実行に移して試合に出られなくなった少年野球選手や解雇されたビジネスパーソンがいたとして、評論家が責任をとってくれるわけではない。評論家というのは、評論をするのが仕事であって、責任をとるのは仕事ではないからだ。
したがって、若者たちは、そうした評論家を見かけたら、すぐに信じるべきではない。本当に彼らのアドバイスに従ったほうが良いのか、自分の頭でよく考えてから行動すべきなのだ。
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