
2001年に撮影された、スルガ銀行の岡野光喜社長兼CEO(写真:毎日新聞社/アフロ)
今春発覚し、おおいに世間を騒がせている「女性専用シェアハウス・かぼちゃの馬車」への投資トラブル問題、さらには創業家関連企業への巨額融資問題などの責任を取って、スルガ銀行の代表取締役会長兼CEO・岡野光喜(みつよし)が辞任する見込みとの報道が駆け巡っている。
岡野は1967年に慶應義塾大学経済学部を卒業、富士銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、ロンドン支店などに勤めた後、1975年に駿河銀行(現在のスルガ銀行)に転じて、1979年に34歳で取締役に就任。そして1985年にはわずか40歳で頭取になって以来、33年にわたってスルガ銀行のトップに君臨してきた。
なぜ、そのような長期政権を維持できたのか? 簡単にいってしまえば、スルガ銀行は岡野家がつくった銀行であり、岡野家の人間が代々頭取を務めてきた同族経営の企業だから。岡野光喜は、その“4代目”に当たるのである(親子関係で見た場合。トップとしては5代目)。

スルガ銀行の公式サイトでは、ずさん融資問題に絡む債務者対応の窓口として、「シェアハウス等顧客対応室」の設置がアナウンスされている。
水害で「貯蓄組合共同社」を立ち上げた、初代・岡野喜太郎
スルガ銀行をつくった岡野喜太郎は、光喜の曾祖父に当たる。岡野家は現在の沼津市で名主を務めていた家柄で、喜太郎は江戸時代末期の1864(元治元)年に生まれた。
1884年に師範学校に進んだが、その頃に郷里が大水害に襲われ、世情不安から農民一揆が起こる状況に陥った。
喜太郎は郷里を救済するために学校を辞め、自ら率先して農耕事業にいそしみ、「わが手を見よ」と村民に勤労による復興を訴えた。そして、農民が天災に打ち勝ち繁栄していくには勤倹貯蓄の道しかないと説いて、1887年に貯蓄組合共同社を立ち上げた。
この貯蓄組合共同社という、村民17人が月掛10銭で始めた組織が、今に続くスルガ銀行の母体なのだ。
1894年に勃発した日清戦争で日本が勝利を収めると、戦勝景気で急成長を遂げ、翌1895年に株式会社根方銀行に改組された。とはいえ、当時全国にあった817の銀行の中では、最小規模の銀行だった。
日本の銀行の歴史は合併の歴史
ん?――当時は817行も銀行があったのか!
そう、現在とは違って、明治期は銀行の設立が比較的容易で、極小規模の銀行でも設立可能だった。だから、銀行もフツーの商店と同様、簡単にできて、簡単に潰れた。
金融当局はこうした状況を苦々しく思い、弱小銀行を合併させて体力のある大銀行をつくりたいと考えていた。そして、1920年代に大規模な金融恐慌が起こり、日本が戦時体制に向かっていくと、大蔵大臣(現在の財務大臣)・馬場鍈一(えいいち)が「一県一行主義」を提唱する。
つまり、一つの都道府県に銀行は一行(に合併させてしまえ)という構想の下、銀行統合が着々と進められていったのである。
1989~92年に相互銀行が普通銀行(第二地方銀行)に転換して、現在では一つの県に複数の銀行が存在しているからわかりにくいが、1980年代まではだいたい、一つの県には地方銀行が一行というのが当たり前だったのだ。
一県一行主義に抵抗した、現スルガ銀行初代・喜太郎
「一県一行主義」により、静岡県では1927年には105行あった銀行が、その15年後には8行にまで集約されてしまった。そして1943年、静岡県下で合併可能な銀行をすべて買収・合併する形で、静岡銀行が誕生した。
喜太郎はこの静岡銀行への合同には参加しなかった。喜太郎がつくった根方銀行は、その後、駿東実業銀行、駿河銀行と名を変えて、沼津地方を代表する銀行となっていた。
静岡銀行の大合併で、静岡県下には静岡銀行、駿州銀行、駿河銀行、伊豆銀行の4行が残り、さらに静岡―駿州、駿河―伊豆が合併して2行となるプランが持ち上がった。
ところが、ここで突然、喜太郎は大蔵省(現在の財務省)に呼ばれ、大蔵省銀行課長から「静岡銀行と合併せよ」と指示を受ける。
喜太郎がこれを断ると、銀行課長は「あなたは、この重大な国策に反対するのですか」と威圧し、「駿河銀行と静岡銀行の合併は決定された方針です。いまさら動かすことはできません」と続けた。
「勝手に決めておいて、それを決定した方針とはなんです。静岡銀行との合併は絶対に承服できません。それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します」
喜太郎は銀行課長の机を強く叩いて抗議し、この合併話を撤回させることに成功したのである。
ちなみに、伊豆銀行は駿河銀行との合併交渉が頓挫し、静岡銀行に吸収合併された。駿州銀行も1945年5月に静岡銀行に営業権譲渡する(事実上の吸収合併)契約を結んだが、同年7月の空襲で本店が焼失。営業権譲渡が不可能となり、戦後に清水銀行と改称して現在に至っている。
続く岡野家の世襲、40歳での頭取就任
大蔵省の強権発動で多くの銀行が渋々合併していく中、大蔵省に断固反対して合併を免れた銀行は数少なかった。駿河銀行が単独で存続し得たのは、まさに創業者・岡野喜太郎の信念によるところが大きい。
そんなわけで、駿河銀行では岡野家が特別視され、頭取を代々務めていた。
1957年に岡野喜太郎が93歳にしてようやく頭取を退任し、長男・岡野豪夫(ひでお)が67歳で頭取に就任。豪夫は東海道新幹線の三島駅開設にも尽力し、地域の活性化に努めたが、1964年に急死。
そこで、豪夫の長男・岡野喜一郎が47歳の若さで頭取に就任。全国最年少頭取の誕生となった。
しかし、喜一郎は体調不良を理由に1981年に頭取を辞任。通常なら、喜一郎の長男・岡野光喜が世襲するところであるが、光喜はまだ36歳。その前々年に取締役になったばかりであった(それでも充分早いのだが)。そこで喜一郎の弟・岡野喜久麿(きくまろ)が56歳で頭取になった。
そして、1985年に岡野光喜が40歳の若さで頭取となったのである。なお、駿河銀行は1990年にスルガ銀行と行名表示を変更している。
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