サバイバー女子が語る「わたしの包丁恐怖症」克服までの道のり

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「君はあの家にいたら壊れてしまう。僕がなんとかするから」

 そんな先の見えないモーちゃんを救ってくれたのは、共通の知人の紹介で出会ったワタルさん(仮名・35歳)だ。音楽やマンガの趣味がぴたりと合い、自然な流れで交際が始まった。

「彼には家のことも全部話してたんだけど、そしたら『君はあの家にいたら壊れてしまう。僕がなんとかするから』って実家を出ることを勧められたんだよね」

「一人暮らしをする」といっても家族は許してくれなかったから、2人で計画して準備を進めた。そして、冷たいビル風が切りつける2月のある夜、大学に書類を忘れたふりをしてモーちゃんは家を出た。家族に怪しまれないように携帯電話と財布だけを持ち出して、玄関からは最寄りの駅を目指して無我夢中で走った。

 その道を実際にわたしに案内してくれたとき、モーちゃんは当時の心境を振りかえった。「逃げ切ってやっと彼に会えたときは、うれしいやら悲しいやら、もうぐちゃぐちゃだったよ。実家を捨ててきた罪悪感や安堵感も噴出してさ……もう言葉にできない……言葉にできないよね」と困ったような顔する。わたしが「それは例えば、小田和正の歌みたいな?」と聞くと、「そうそう!」と鈴を転がしたように笑った。

 深刻な話の締めには、笑いを挟むのがモーちゃんの習慣だ。もしかしたら、笑うことで、辛い記憶や直面している課題をどうにかプラスに変えようとしているのかもしれない。

 家出後は、友人宅で数日身を隠した。そしてワタルさんの家で同棲生活が始まる。ワタルさんはパートタイマーの身。質素な生活ではあるが、布団や洋服などの日用品はすべて彼が用意してくれたという。

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モーちゃんから「婚約者に会わせたい」というLINEが届いて、都内のとんかつ料理店で待ち合わせたのは、その年の末だった。

 奥の席で並んで座っていた2人は、遅れて入ってきたわたしの姿を認めると、かしこまって席を立ちお辞儀をした。ペアルックにも見える黒いセーターが初々しい。ワタルさんは理路整然とした話し方をする頭の良さそうな人だったが、恋人同士の会話には、しばしば幼児言葉が混じっている。今は他人のわたしに気をつかっているが、家では子どものようにじゃれ合っているのだろう。

 3人でとんかつを食べる。窯焼きパンをくだいてつくったという衣は、さくさくと軽やかな歯ごたえ。自然に「おいしいね」と笑顔がこぼれた。「安心できる人と場所で」「温かいご飯を」「笑いながら食べる」。多くの人にとっては当たり前のこの日常行為が、一部のサバイバーには手に入らないとさえ思える「夢」なのである。この夢をモーちゃんが手に入れたことの意味は大きい。

 同棲生活は、決して楽ではない。心の病を抱えたまま誰かと暮らすためには、「お互いが安心できるためのルール」を構築していく必要があった。古いアパート暮らしで家計も切り詰めている。でも、そこには日々の小さな幸せがある。

 今では交流を復活させつつあるわたしの実家で、モーちゃんが包丁を使う様子を見せてもらった。ぬか漬けのキュウリをテンポよく切る。器に盛ろうと持ち上げると、それらは残念ながらごっそり繋がっていた。「中国の飾り包丁みたいじゃん」とフォローすると、「あるある!」と威勢よく相槌を打ち、また笑う。

 まだおぼつかなくはあるが、その手でモーちゃんは今、自分やワタルさん、老人ホームで待つ「じいちゃん、ばあちゃん」のために一生懸命食事をつくる。大切な人とごはんを食べる幸せをかみしめるために。

(文/帆南ふうこ)

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