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あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判

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Thinkstock/Photo by rihard_wolfram

怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの (呉茂一訳『イーリアス』第一書)

 ヨーロッパ文学の歴史は激おこぷんぷん丸から始まるというのは、よく言われる話です。いえ「激おこぷんぷん丸から始まる」と言っているのは私だけかもしれませんが、とにかく怒りから始まるというのはしばしば指摘されます。

 トロイア戦争を描いた古代ギリシアの叙事詩『イリアス』は紀元前8世紀頃に成立したと考えられており、英雄アキレウスの怒りを歌うべく、語り手が芸術の女神ムーサから霊感を賜ろうと祈るところから始まります。『ギルガメシュ叙事詩』などさらに古い文学作品もありますが、とにかく『イリアス』がヨーロッパ文学の祖のひとつであることは間違いありません。

 無神論者の私は女神に頼れませんが、今回は私の怒りを書こうと思います。アキレウスが怒っていたのは、戦利品として獲得した愛人ブリセイスをギリシア軍の大将アガメムノンが奪おうとしたからです。私が怒っているのは、文学を奪おうとしている人たちがいるからです。

わたしだって悲しい

 8月18日、REALKYOTOに福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」が掲載されました。早稲田大学で教えていた渡部直己のセクハラ問題と、北条裕子『美しい顔』の剽窃疑惑を軸として「文壇」の現状を批判したものです。

 この論考のセクハラ観については既にずいぶん批判されていますし、『美しい顔』批評についても紙面が足りないのでここではとりあげません。私が批判したいのは、この議論が「文学」を非常に狭く規定しているということです。「文学は……」で始まる文章が数回出てきますが、以下の箇所が一番、その文学観を示していると思います。

文学は本来、そのような共感の危うさを――つまり一見して優しげな善意のもつ罠を――教えるためのものである。言い換えれば、文学とはMe Tooと言った瞬間に消えてしまう繊細なものを捉えるための表現手段である。このシンギュラー(単独的)なものの手触りを抹消したとき、文学はポリティカル・コレクトネスに――つまりわざわざ文学的な装置を使わずとも言える道徳的な言葉に――還元されるだろう。それは文学の自殺にほかならない。(「文壇の末期的状況を批判する」)

 ここで言われている「文学」とはいったい、何なのでしょうか? 辞書的には、文学とは主に言語を用いる芸術です。小説、詩、演劇(戯曲)、エッセイ、評論、宗教的なお説教や政治的演説などのパブリックスピーキング、ジャーナリズム、口承の民話など、非常に幅広いものを含みます。詩や私の専門である演劇は古代から盛んですが、小説はこうしたジャンルに比べると発展が遅く、西洋では近代小説と言えるものが影響力を持つようになったのは17世紀より後のことですし、日本でも『竹取物語』などの散文によるしっかりした物語が発展したのは9世紀より後のことです。

 「文学とはMe Tooと言った瞬間に消えてしまう繊細なものを捉えるための表現手段である」というのは、おそらく近代小説中心主義に基づくものです。近代小説は、自我を持った個人を軸に独創性や個別性を高く評価することが多いですが、一方で詩人は古くから、歴史などを後世に伝えるための乗り物として自らの才能を規定することがあります。叙事詩の歌い手は「単独的」なものより普遍を目指し、挽歌を歌う者は死者の魂に乗り移り、他人の感情を描写する時はその心に入り込みます。

 他人の心に自在に入り込む詩は、「わたしだって悲しい」「わたしも怒りたい」などの集合的な感情を古くから表現してきました。『イリアス』第19巻には、アキレウスの親友で人々から尊敬されていたパトロクロスが戦死し、その遺体を前にブリセイスをはじめとする女たちが泣くところがあります。

 この場面では、女たちは実はパトロクロスの死に乗じて、自らのつらく苦しい境遇を嘆いているのだという説明がなされます。ブリセイスはアキレウスに愛されて妻に近い地位を得ているとはいえ、家族を殺され、戦利品としてモノのようにやりとりされる立場で、他の女たちも多くは戦時性暴力の被害者であったり、家族を殺され孤独な身の上になったりした人々です。戦争の犠牲者となったトロイアの女たちは暴力を告発することもできず、優しかったパトロクロスの死を口実に涙を流して心を休めることしか許されていません。短い描写ですが、この古代のMe Too、つまりひとりでは声をあげることができないものの、ちょっとしたきっかけで激しく噴出してしまう深い悲しみを抱えた女たちの姿は非常に胸を打つものです。

 私は近代小説より詩のほうが優れているというようなことを言いたいのではありません。「文学とは〇〇だ」「文学は××でない」というような言い草は、ごく一部の文学、おそらくは特定の範囲の近代小説だけを「文学」だとする、狭くて不自由な文学観に基づいているということを指摘したいのです。

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北村紗衣

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科専任講師。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。

twitter:@Cristoforou

ブログ:Commentarius Saevus

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