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あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判

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文学をどんどん不自由に

 悲しいことに、こうした「文学は〇〇だ」「文学は××でない」といったような、文学を不自由にする主張は、現代日本において幅広く見られます。

 たとえば、2015年に大阪芸術大学の文芸誌『藝大我楽多文庫』が「ライトノベルは文学か」という鼎談を発行しました。近世演劇の研究者としては、大部分が文字で書いてあるものに関してこんな問いはおかしい、むしろ文字以外の要素が多い演劇よりもラノベのほうが文学らしいのでは……と思えますが、この鼎談は無意識に近代小説のみを「文学」と考えています。

 「作品からその作家像を思い描けるのも『文学』の面白さのひとつです」(p. 20)などという指摘が出てきますが、先に登場した叙事詩や、地の文がなくてそれぞれの登場人物に全く異なる行動をとらせることができる演劇などは、多くの場合「作品からその作家像を思い描」くことができません。私が研究しているシェイクスピアはたいへんポリフォニー的、つまりいろいろな声がひとつの舞台で響く多様性に飛んだ作風だと言われている上、しょっちゅう仲間の作家と共作をしています。シェイクスピア劇を見て著者の作家像を思い描くのは至難の技ですし、そんなことをしてもたいして面白くはないと思います。

 2016年に3回に分けて『文學界』に掲載された伊藤氏貴の「LGBT批判序説」も、こうした不自由な文学論の一例です。この論考は今までのクィア批評の蓄積をあまり押さえていないのですが、不可思議なのは、文学には何らかの「代替不可能」なテーマがなければならないという信念に貫かれていることです。伏見憲明『魔女の息子』の分析では、主人公は同性愛者である一方、全体としては老いに対する不安が焦点であることを指摘してこう述べています。

この小説において、「同性愛者」であることは、重要な設定ではあるが、代替不可能なテーマというわけではない。たとえば、肌の色にかかわらず人は同じような悩みを悩むものだ、という意識に達してしまえば、文学は人種差別をテーマにしえなくなる。「同性愛者であること」も早晩同じような途を辿るだろう。(「LGBT批判序説1」、pp. 269–270)

 同性愛者であることや人種差別を受けていることは、代替不可能ではないので文学のテーマにならないそうですが、それではいったい何が「代替不可能」なテーマなのでしょうか? これはテーマの優劣、しかも非常に主観的に判断されたテーマの優劣によって「文学」かどうかが決まるという、近代小説中心主義的で横柄な文学観だと思います。

 モダニズムの小説家ヴァージニア・ウルフは壁のシミについて考えるだけの内容の短編を書いていますし、ロマン派の詩人ワーズワースは田舎の花とか池などちっちゃな自然についての詩をたくさん書いています。壁のシミやそこらへんの池は代替可能なテーマだから文学らしくないのでしょうか? 芸術というのは、どんなにちっぽけでありふれて見えるものからも美を引き出すことができる可能性を秘めていたのではないのでしょうか?

 伊藤の論考は、「『同性愛者/異性愛者』というカテゴライズそのものを疑い、そこから〈自由〉であることを目指す」ことが重要で、「『同性』愛が文学に場所を見つけられるとすればこの方向しかない」(「LGBT批判序説3」、p. 227)と結論しています。こんな指摘は文学にとって余計なお世話だと思います。どんな主題にも、文学には場所があります。文学は何でも自由に書けるところで、ただ書いた結果が面白いか、クズかということがあるだけです。作家や批評家ごとに好き嫌いがあるのは当たり前ですが、自分が評価しないものは文学ではないなどというのはただの傲りです。ゴミみたいな文学であっても、文学なのです。

文学は誰のもの?

 このような批評的態度に共通して見受けられるのは、「これが文学だ」「あんなのは文学じゃない」ということを、なぜか批評家である自分が決める権威を持っているという感覚です。これは批評におけるある種のマッチョイズムだと思います。自分には文化のあり方を決める権威があるのだ、という考えが背後に見え隠れします。

 文学以外に、こうしたマッチョイズムに基づく態度が蔓延しているおなじみの領域がフェミニズムです。「フェミニズムは本来〇〇だ」とか「××は自称フェミニズムであってフェミニズムではない」などと言いたがる人は後を絶ちませんし、また男の方に多いようです(女にもいますが)。このように殿方がフェミニズムを「鑑定」しようとするのは、男性が女性に対して、相手のほうが詳しいかもしれないことを偉そうに説明したがる「マンスプレイニング」の典型例です。どういうわけだか、フェミニズムが何であるかを決める権威が自分にあるかのように振る舞っているのです。文学でも、フェミニズムでも、やたらとその範囲を狭めて自分が好きなもの、自分に都合が良いものだけを選んで他を排除しようとする人はたくさんいます。この点では、文学とフェミニズムは同種のマッチョイズムから害を被っていると言えます。

 前述した「文壇の末期的状況を批判する」には、8月21日に追記が行われ、以下のような内容が付け加えられました。

他方、大上段から文学について語る、その態度そのものを否定する向きがあるとも聞きました。これはたぶん若い世代の反応なのでしょうが、そもそも「文壇」とは本来は「文学とは何か、何をやるべきか、何のためにあるのか、何ができて何ができないのか」等々のメタ的な問いを、実作や評論や翻訳や座談会等々によって組織していくためのコミュニケーション空間です。(中略) 今の二〇代の読者には、文学的コミュニケーションそのものがすでに無価値なものに見えているかもしれません。 (「文壇の末期的状況を批判する」)

 この論考の文学観に真っ先に噛みついたひとりが私ですが、私は35歳と若くはなく(福嶋は1981年生まれ、私は1983年生まれ)、文芸批評の近代小説中心主義、男性中心主義に飽き飽きしている近世イングランド演劇の研究者で、紳士方の集まりである「文壇」などにはまったく価値を置いていません。

 福嶋の論考では「ポリティカル・コレクトネス」が批判されていますが、「文学とは何か、何をやるべきか、何のためにあるのか」という議論に実りがあるという発想は、私にはここで批判されている「ポリティカル・コレクトネス」と同種のものに思えます。私はこれまで、近代小説(多くは男性の著者が男性の関心を引くような内容を扱った作品)しか頭にない人々が、文学とは何かを議論して、叙事詩も紫式部もダンテもシェイクスピアも入らないような文学のマイ定義をひねり出してくるのを冷ややかに見てきました。いくぶんかは古典の伝統と繋がっている批評家として、文学は自由だし、何でもありでいいのだ、ということを大きな声で言いたいと思います。あなたたちが考える文学の定義なんて、私は要りません。文学が何かを決める権利は、批評家はもちろん、誰にもないのです。

参考文献

石坂秀之、大槻慎二、福江泰太「鼎談「ライトノベルは文学か」」『藝大我楽多文庫第七集』(2015):4–34。
伊藤氏貴「同性愛者の誕生=同性愛文学の死 : LGBT批判序説」『文學界』70.3 (2016):244–272。
伊藤氏貴「女性同性愛の文学史、あるいは「レズビアン」という不幸 : LGBT批判序説(2)」『文學界』70.6 (2016):206–228。
伊藤氏貴「「同性愛者」後の同性愛文学の可能性について : LGBT批判序説(3)」『文學界』70.10 (2016):224–243。
福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」、REALKYOTO、8月18日、8月21日追記、< http://realkyoto.jp/article/fukushima_bundan/>。
堀茂樹「フェミニズムはヒューマニズムである」『大航海』57 (2006):111–121。
ヴァージニア・ウルフ『壁のしみ――短編集』川本静子訳(みすず書房、1999)。
ホメーロス『イーリアス』上下巻、呉茂一訳(平凡社ライブラリー、2003)。
Harold Bloom, The Western Canon: The Books and School of the Ages (Harcourt Brace, 1994).
T. S. Eliot, The Waste Land and Other Poems (Broadview Press, 2010).
Frank Kermode, Pleasure and Change: The Aesthetics of Canon (Oxford University Press, 2004).
William Wordsworth, William Wordsworth: The Major Works, ed. Stephen Gill (Oxford, 2000.)

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