あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判

連載 2018.09.10 17:15

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怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの (呉茂一訳『イーリアス』第一書)

 ヨーロッパ文学の歴史は激おこぷんぷん丸から始まるというのは、よく言われる話です。いえ「激おこぷんぷん丸から始まる」と言っているのは私だけかもしれませんが、とにかく怒りから始まるというのはしばしば指摘されます。

 トロイア戦争を描いた古代ギリシアの叙事詩『イリアス』は紀元前8世紀頃に成立したと考えられており、英雄アキレウスの怒りを歌うべく、語り手が芸術の女神ムーサから霊感を賜ろうと祈るところから始まります。『ギルガメシュ叙事詩』などさらに古い文学作品もありますが、とにかく『イリアス』がヨーロッパ文学の祖のひとつであることは間違いありません。

 無神論者の私は女神に頼れませんが、今回は私の怒りを書こうと思います。アキレウスが怒っていたのは、戦利品として獲得した愛人ブリセイスをギリシア軍の大将アガメムノンが奪おうとしたからです。私が怒っているのは、文学を奪おうとしている人たちがいるからです。

わたしだって悲しい

 8月18日、REALKYOTOに福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」が掲載されました。早稲田大学で教えていた渡部直己のセクハラ問題と、北条裕子『美しい顔』の剽窃疑惑を軸として「文壇」の現状を批判したものです。

 この論考のセクハラ観については既にずいぶん批判されていますし、『美しい顔』批評についても紙面が足りないのでここではとりあげません。私が批判したいのは、この議論が「文学」を非常に狭く規定しているということです。「文学は……」で始まる文章が数回出てきますが、以下の箇所が一番、その文学観を示していると思います。

文学は本来、そのような共感の危うさを――つまり一見して優しげな善意のもつ罠を――教えるためのものである。言い換えれば、文学とはMe Tooと言った瞬間に消えてしまう繊細なものを捉えるための表現手段である。このシンギュラー(単独的)なものの手触りを抹消したとき、文学はポリティカル・コレクトネスに――つまりわざわざ文学的な装置を使わずとも言える道徳的な言葉に――還元されるだろう。それは文学の自殺にほかならない。(「文壇の末期的状況を批判する」)

 ここで言われている「文学」とはいったい、何なのでしょうか? 辞書的には、文学とは主に言語を用いる芸術です。小説、詩、演劇(戯曲)、エッセイ、評論、宗教的なお説教や政治的演説などのパブリックスピーキング、ジャーナリズム、口承の民話など、非常に幅広いものを含みます。詩や私の専門である演劇は古代から盛んですが、小説はこうしたジャンルに比べると発展が遅く、西洋では近代小説と言えるものが影響力を持つようになったのは17世紀より後のことですし、日本でも『竹取物語』などの散文によるしっかりした物語が発展したのは9世紀より後のことです。

 「文学とはMe Tooと言った瞬間に消えてしまう繊細なものを捉えるための表現手段である」というのは、おそらく近代小説中心主義に基づくものです。近代小説は、自我を持った個人を軸に独創性や個別性を高く評価することが多いですが、一方で詩人は古くから、歴史などを後世に伝えるための乗り物として自らの才能を規定することがあります。叙事詩の歌い手は「単独的」なものより普遍を目指し、挽歌を歌う者は死者の魂に乗り移り、他人の感情を描写する時はその心に入り込みます。

 他人の心に自在に入り込む詩は、「わたしだって悲しい」「わたしも怒りたい」などの集合的な感情を古くから表現してきました。『イリアス』第19巻には、アキレウスの親友で人々から尊敬されていたパトロクロスが戦死し、その遺体を前にブリセイスをはじめとする女たちが泣くところがあります。

 この場面では、女たちは実はパトロクロスの死に乗じて、自らのつらく苦しい境遇を嘆いているのだという説明がなされます。ブリセイスはアキレウスに愛されて妻に近い地位を得ているとはいえ、家族を殺され、戦利品としてモノのようにやりとりされる立場で、他の女たちも多くは戦時性暴力の被害者であったり、家族を殺され孤独な身の上になったりした人々です。戦争の犠牲者となったトロイアの女たちは暴力を告発することもできず、優しかったパトロクロスの死を口実に涙を流して心を休めることしか許されていません。短い描写ですが、この古代のMe Too、つまりひとりでは声をあげることができないものの、ちょっとしたきっかけで激しく噴出してしまう深い悲しみを抱えた女たちの姿は非常に胸を打つものです。

 私は近代小説より詩のほうが優れているというようなことを言いたいのではありません。「文学とは〇〇だ」「文学は××でない」というような言い草は、ごく一部の文学、おそらくは特定の範囲の近代小説だけを「文学」だとする、狭くて不自由な文学観に基づいているということを指摘したいのです。

文学をどんどん不自由に

 悲しいことに、こうした「文学は〇〇だ」「文学は××でない」といったような、文学を不自由にする主張は、現代日本において幅広く見られます。

 たとえば、2015年に大阪芸術大学の文芸誌『藝大我楽多文庫』が「ライトノベルは文学か」という鼎談を発行しました。近世演劇の研究者としては、大部分が文字で書いてあるものに関してこんな問いはおかしい、むしろ文字以外の要素が多い演劇よりもラノベのほうが文学らしいのでは……と思えますが、この鼎談は無意識に近代小説のみを「文学」と考えています。

 「作品からその作家像を思い描けるのも『文学』の面白さのひとつです」(p. 20)などという指摘が出てきますが、先に登場した叙事詩や、地の文がなくてそれぞれの登場人物に全く異なる行動をとらせることができる演劇などは、多くの場合「作品からその作家像を思い描」くことができません。私が研究しているシェイクスピアはたいへんポリフォニー的、つまりいろいろな声がひとつの舞台で響く多様性に飛んだ作風だと言われている上、しょっちゅう仲間の作家と共作をしています。シェイクスピア劇を見て著者の作家像を思い描くのは至難の技ですし、そんなことをしてもたいして面白くはないと思います。

 2016年に3回に分けて『文學界』に掲載された伊藤氏貴の「LGBT批判序説」も、こうした不自由な文学論の一例です。この論考は今までのクィア批評の蓄積をあまり押さえていないのですが、不可思議なのは、文学には何らかの「代替不可能」なテーマがなければならないという信念に貫かれていることです。伏見憲明『魔女の息子』の分析では、主人公は同性愛者である一方、全体としては老いに対する不安が焦点であることを指摘してこう述べています。

この小説において、「同性愛者」であることは、重要な設定ではあるが、代替不可能なテーマというわけではない。たとえば、肌の色にかかわらず人は同じような悩みを悩むものだ、という意識に達してしまえば、文学は人種差別をテーマにしえなくなる。「同性愛者であること」も早晩同じような途を辿るだろう。(「LGBT批判序説1」、pp. 269–270)

 同性愛者であることや人種差別を受けていることは、代替不可能ではないので文学のテーマにならないそうですが、それではいったい何が「代替不可能」なテーマなのでしょうか? これはテーマの優劣、しかも非常に主観的に判断されたテーマの優劣によって「文学」かどうかが決まるという、近代小説中心主義的で横柄な文学観だと思います。

 モダニズムの小説家ヴァージニア・ウルフは壁のシミについて考えるだけの内容の短編を書いていますし、ロマン派の詩人ワーズワースは田舎の花とか池などちっちゃな自然についての詩をたくさん書いています。壁のシミやそこらへんの池は代替可能なテーマだから文学らしくないのでしょうか? 芸術というのは、どんなにちっぽけでありふれて見えるものからも美を引き出すことができる可能性を秘めていたのではないのでしょうか?

 伊藤の論考は、「『同性愛者/異性愛者』というカテゴライズそのものを疑い、そこから〈自由〉であることを目指す」ことが重要で、「『同性』愛が文学に場所を見つけられるとすればこの方向しかない」(「LGBT批判序説3」、p. 227)と結論しています。こんな指摘は文学にとって余計なお世話だと思います。どんな主題にも、文学には場所があります。文学は何でも自由に書けるところで、ただ書いた結果が面白いか、クズかということがあるだけです。作家や批評家ごとに好き嫌いがあるのは当たり前ですが、自分が評価しないものは文学ではないなどというのはただの傲りです。ゴミみたいな文学であっても、文学なのです。

文学は誰のもの?

 このような批評的態度に共通して見受けられるのは、「これが文学だ」「あんなのは文学じゃない」ということを、なぜか批評家である自分が決める権威を持っているという感覚です。これは批評におけるある種のマッチョイズムだと思います。自分には文化のあり方を決める権威があるのだ、という考えが背後に見え隠れします。

 文学以外に、こうしたマッチョイズムに基づく態度が蔓延しているおなじみの領域がフェミニズムです。「フェミニズムは本来〇〇だ」とか「××は自称フェミニズムであってフェミニズムではない」などと言いたがる人は後を絶ちませんし、また男の方に多いようです(女にもいますが)。このように殿方がフェミニズムを「鑑定」しようとするのは、男性が女性に対して、相手のほうが詳しいかもしれないことを偉そうに説明したがる「マンスプレイニング」の典型例です。どういうわけだか、フェミニズムが何であるかを決める権威が自分にあるかのように振る舞っているのです。文学でも、フェミニズムでも、やたらとその範囲を狭めて自分が好きなもの、自分に都合が良いものだけを選んで他を排除しようとする人はたくさんいます。この点では、文学とフェミニズムは同種のマッチョイズムから害を被っていると言えます。

 前述した「文壇の末期的状況を批判する」には、8月21日に追記が行われ、以下のような内容が付け加えられました。

他方、大上段から文学について語る、その態度そのものを否定する向きがあるとも聞きました。これはたぶん若い世代の反応なのでしょうが、そもそも「文壇」とは本来は「文学とは何か、何をやるべきか、何のためにあるのか、何ができて何ができないのか」等々のメタ的な問いを、実作や評論や翻訳や座談会等々によって組織していくためのコミュニケーション空間です。(中略) 今の二〇代の読者には、文学的コミュニケーションそのものがすでに無価値なものに見えているかもしれません。 (「文壇の末期的状況を批判する」)

 この論考の文学観に真っ先に噛みついたひとりが私ですが、私は35歳と若くはなく(福嶋は1981年生まれ、私は1983年生まれ)、文芸批評の近代小説中心主義、男性中心主義に飽き飽きしている近世イングランド演劇の研究者で、紳士方の集まりである「文壇」などにはまったく価値を置いていません。

 福嶋の論考では「ポリティカル・コレクトネス」が批判されていますが、「文学とは何か、何をやるべきか、何のためにあるのか」という議論に実りがあるという発想は、私にはここで批判されている「ポリティカル・コレクトネス」と同種のものに思えます。私はこれまで、近代小説(多くは男性の著者が男性の関心を引くような内容を扱った作品)しか頭にない人々が、文学とは何かを議論して、叙事詩も紫式部もダンテもシェイクスピアも入らないような文学のマイ定義をひねり出してくるのを冷ややかに見てきました。いくぶんかは古典の伝統と繋がっている批評家として、文学は自由だし、何でもありでいいのだ、ということを大きな声で言いたいと思います。あなたたちが考える文学の定義なんて、私は要りません。文学が何かを決める権利は、批評家はもちろん、誰にもないのです。

参考文献

石坂秀之、大槻慎二、福江泰太「鼎談「ライトノベルは文学か」」『藝大我楽多文庫第七集』(2015):4–34。
伊藤氏貴「同性愛者の誕生=同性愛文学の死 : LGBT批判序説」『文學界』70.3 (2016):244–272。
伊藤氏貴「女性同性愛の文学史、あるいは「レズビアン」という不幸 : LGBT批判序説(2)」『文學界』70.6 (2016):206–228。
伊藤氏貴「「同性愛者」後の同性愛文学の可能性について : LGBT批判序説(3)」『文學界』70.10 (2016):224–243。
福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」、REALKYOTO、8月18日、8月21日追記、< http://realkyoto.jp/article/fukushima_bundan/>。
堀茂樹「フェミニズムはヒューマニズムである」『大航海』57 (2006):111–121。
ヴァージニア・ウルフ『壁のしみ――短編集』川本静子訳(みすず書房、1999)。
ホメーロス『イーリアス』上下巻、呉茂一訳(平凡社ライブラリー、2003)。
Harold Bloom, The Western Canon: The Books and School of the Ages (Harcourt Brace, 1994).
T. S. Eliot, The Waste Land and Other Poems (Broadview Press, 2010).
Frank Kermode, Pleasure and Change: The Aesthetics of Canon (Oxford University Press, 2004).
William Wordsworth, William Wordsworth: The Major Works, ed. Stephen Gill (Oxford, 2000.)

北村紗衣

2018.9.10 17:15

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。

twitter:@Cristoforou

ブログ:Commentarius Saevus

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