かつて存在した宝塚「男子部」が、極上のエンタメ舞台作品に!

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 男女合同公演の話の噂が立っては消えてが繰り返され、劇団上層部の意向も見えず、星野(東山義久・中塚皓平)は「戦争中、情報を与えられなかったのと同じ」「大本営に踊らされるのはもうこりごりだ」と憤りますが、ついに台本が彼らの手元に届きます。

 じらすように台本を見せびらかして渡した後、稽古場の外から見守る山西の様子がいたずらっぽくチャーミングで、男子部を応援してくれるひとたちの存在を増えたことを感じさせながらも、やはり公演は実現せず。やがて男子部は、解散の時を迎えます。

「二度目の終戦記念日だ」「美しい宝塚を夢みて懸命に生きた。戦友に報告できる」。胸をはりながらも涙を流す男子部に池田がかけた言葉は「力が足りないとか運命とかじゃない。ここは宝塚だったってことだ。男には居心地が悪い」。そして彼らは生涯一度だけの「宝塚」のショーを演じます。黒燕尾服とシルクハットに身を包み、大きな羽根を背負って―。

 このショーが劇中の現実のものなのか、実際の宝塚のショーによくある心象場面の幻想なのかは、明示されません。しかし、宝塚歌劇団のシンボルである大階段が登場し、ミラーボールや背景の照明、BGMの「モン・パリ」「おお宝塚」「すみれの花咲く頃」のタンゴやボレロアレンジ、振り付けのパターンから観客の手拍子まで、本物の宝塚の再現率の高さはほぼ完璧! ただ、演者が男性だということ以外はーー。

葬儀で「すみれの花咲く頃」

 そして、そのショーの最後のBGMは「さよなら皆様」。これは宝塚歌劇の終演後、劇場内に必ず流れる音楽で「さよなら皆様、また会うその日まで」という歌詞と、夢に別れを告げる男子部とのオーバーラップに、上演のたびに、客席のすすり泣きが最高潮になる名場面です。

 実在の男子部は1945年12月から1952年の間、4回の募集が行われ25人が在籍しましたが、1954年3月に解散。宝塚の舞台に立つことを目的に募集されながら、実際に馬の脚や陰コーラスだけでプログラムに名前が載ることもなく、一度も大劇場に出演することはありませんでした。

 初演で君原を演じた初風諄は元宝塚月組トップ娘役でしたが、それまで実在の男子部の存在を知らず、彼らの無念への共感から「宝塚を代表してお詫び申し上げます」と頭を下げたというエピソードが伝えられるほど、隠れた存在でありました。

 その初演時、当時存命だった6人の元男子部たちが「宝塚BOYS」を観劇し、「僕たちの夢が叶いました」と伝えられた上原役の柳家花緑は、泣いてしまったと明かしています。上原のモデルで実際に小林に手紙を送った上金文雄氏は2005年に他界しており観劇は叶いませんでしたが、その葬儀には「すみれの花咲く頃」が流されたそう。報われることのなかった夢でも、上金氏の人生において宝塚男子部であったことはどれほどの誇りと重さだったのか。日本のミュージカル俳優の先駆者ともいえる男子部の物語を、現在ミュージカル俳優として活躍する役者や若手俳優たちが演じることも、また意義深く感じられます。

宝塚の性別役割分担

 現代の宝塚は、女性だけという形態を守り抜いたまま、その歴史は100年を越えました。1997年、真矢みきがトップスターだった花組で、同じく男性でありながら宝塚に入りたいと田舎からやってくる「ザッツ・レビュー」が上演されたことがありましたが、こちらは演出家志望。宝塚の演出家は近年女性も増えてきましたが、いまだにスタッフには、男女の“区別”がしっかりつけられています。

 ひとつはプロデューサー。一時期は補佐職に女性がいたこともありましたが、プロデューサーになっているのは男性のみ。そして、ファンの中では「お姉さん」でおなじみの、機関誌を制作する編集スタッフは、募集要項には明記されてはいませんが、女性しか採用されません。

 その理由をあるプロデューサーは「タカラジェンヌが半裸になることも多い楽屋に出入りするから女性だけ」と話していましたが、もちろん楽屋には男性であるプロデューサー自身も出入りします。平成ももう終わる世の中なのに……と思わないでもありませんが、現場スタッフにいわせれば「女性ばっかりだから、男性がちょっとはいてもいいんじゃない?」。

 努力すれば夢は叶う、とは、宝塚でもよく描かれる美しい思想です。しかし現実は、必ずしもそうでないことが大半。無数の破れた夢たちを下敷きにしてきた歴史があってこそ、宝塚は独自の魅力を保ち続けてこられました。無駄なことはきっと、何ひとつない。それは、人生と同様かもしれません。

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