
写真:田村翔/アフロスポーツ
大坂なおみ選手の活躍をめぐって、多くの人々の間で一つの問いが浮上しています。それは、「日本人とは何か」という古くて新しい問いです。シンプルかつ少し厄介なこの問いが、大坂選手をめぐってメディア空間を騒がせています。
大坂選手の成し遂げた偉業そのものが素晴らしく、その活躍が盛んに報道されることはもちろんですが、大坂選手の功績を称える報道と同時に、日本人をめぐる「問い」について数多くの意見が活発に語られています。なぜなのでしょうか。
その理由は様々でしょう。大坂選手に対する報道の仕方やメディアでの語られ方そのものに違和感を持った方のツイートや記事が活発にシェア・拡散されていたのもその要因の一つかもしれません。
大坂選手をめぐるメディア空間において興味深い現象の一つは、何を基準として「日本人」を判断するのか、という発想の中で、その基準や指標となるものが、人によって、また立場によって、かなり意見が異なっているということがあらわになった点です。
人々が考える「日本人」というものが、一体なんなのか。
何を基準に「日本人」と判断するのか。
その基準や指標が、実はしっかりと決まったものではないこと。
その基準や指標が、人によってぜんぜん違うということ。
それが、この一連の報道をめぐって、日本社会のさまざまな人々が語る言葉の中から明らかとなったのです。
日常生活における線引き
わたしは、母親が「ハーフ」ということもあり、「ハーフ」と呼ばれる人々をめぐって研究や調査を進めてきました。
たくさんの歴史資料や多くの人への聞き取りを行う中で、やはりこういった、「日本人」をさまざまに定義づけしようとする線引きの経験が語られています。
ある人に対して、
「この人は日本人だ」
「日本人以上に日本人らしい」
「やっぱり日本人らしくない」
といった声がかけられる。
この人は日本人で、この人はそうではない、といったように、恣意的な境界線が、ひとと、ひとの間に、引かれてしまう。
また、ひととひとの間だけではなく、一人の人の中にもこの境界線は引かれてしまう。
一人の人の中にある、ある要素に着目して、この部分は日本人的だ、この特徴は外国人っぽい、いやいやこの箇所とこの箇所があるからまさに日本人だ、といった具合に、である。
「ハーフ」と呼ばれる人々のインタビューをおこなってわかることは、こういった線が、人生のさまざまなタイミングで繰り返し引かれることです。また、この線引きはさまざまな場所や空間や立場などによっても変化します。
この軸はどういったものかといえば、
出身地、育った場所、外見、肌の色、親のルーツ、「血」、国籍、親の移動の背景、文化、習慣、しぐさ、言語(何を話せるか、親が何を話せるかだけではなく、どの程度話せるか)、名前(日本的といわれる名前、外国のルーツを髣髴とさせる名前)など……
人によってその判断基準はさまざまです。
そして、これらたくさんの要素、あらゆる指標をもとに、「これは日本人だ」「やっぱりこれは日本人らしくない」「これとこれがまさに日本人だ」といった判断が下されるのです。
実は、こういったさまざまな要素に基づいて「日本人かどうか」を峻別しようとする力は、「ハーフ」や海外ルーツの人々だけにふりかかってくるわけではありません。
日本で生まれ、しばらく海外で育ち海外の文化や立ち居振る舞いを身につけた帰国生(日常会話では「帰国子女」とも言われる)や、日本にルーツがありつつも海外で生まれ育ったいわゆる「日系人」と呼ばれる人々。
いえ、そうした人々だけでなく、日本社会で暮らすあらゆる人に対して、「日本人かどうか」という基準が、実は日常生活のあらゆる場面でふりかかっているのではないでしょいうか(それが日常生活の中で、問題として感じられるかどうかは別にして)。
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