多くの人が興味をもつテーマ、「日本人とは何か」
「日本人とは何か」なんて、どうでもよい質問だ。
考える必要はない。
国籍が日本なら、日本人だろう。
という人もいるかもしれません。
しかし、事態はそれほど単純ではありません。
たとえば、1960年代ごろから1980年代ごろにかけて、出版界では「日本人論」や「日本文化論」といわれるようなジャンルが大流行し、そのブームはいまでも手を変え品を変え続いています。
国籍を基準に決定できるのだとしたら、それで多くの人の問いが解けるのであれば、日本人論の書籍は、「国籍が日本なら日本人である」という一言で終わるはずです。
そうではなく、あらゆる「伝統」や「文化」や「真髄」といった概念が登場し「日本人」のイメージが形作られていく。こういった出版物がこれほどまでにブームになる理由は、多くの人がこの問いを考え求めているからでしょう。
この軸がずれていたり、一致していなかったり、ぶれていたりすることは誰にだってありえます。しかも、国籍という法的地位を別にすれば、これらの判断する指標一つ一つは、客観的で固定的な基準が決まっているわけではなく実際はかなり曖昧なものではないでしょうか。そうであるにも関わらず、人によってバラバラで曖昧な基準をもとに、「ハーフ」の存在は「日本人」か「外国人」かのどちらか一方に揺さぶられてしまいます。さらに、たとえ国籍が日本であったとしても、外見や名前やしぐさなどに対して「日本人らしいかどうか」が常に問われ続けてしまうのです。
問題なのは、その軸の全てが「一致している状態」が過度に求められてしまうことです。ある部分が、「ずれている」と判断されてしまえば、それをあげつらって、「日本人だ」、「外国人だ」、といった判断が下されてしまう。
これらの要素に「ずれがないこと」が求められるのは日常生活の場面だけではありません。
国家の利益になるかどうか、という判断基準で眼差されるとき、それは異常なほどに先鋭化します。
都合が良いか悪いかで引かれる境界線
私は以前、バングラデッシュにルーツのあるAさんにインタビューを行った際に、近年のハーフをめぐるメディアの状況について聞きました。するとAさんは、特にミス・ユニバースで活躍した宮本エリアナさんをめぐる一連の問題とオリンピック招致の際に活躍した滝川クリステルさんについて話してくれました。
A:あの二人の話がすごく、矛盾というか……。都合の良い時は「日本人」で、都合が悪いと「日本人じゃない」ってなっているようで。
A:ハーフが断片的にしか社会に受け入れられてないのかなっていう感じがしてしまって。
下地:あー、それっていうのは、受け入れられる部分とそうじゃない部分?
A:そうそう。だから結局、多民族性という認識ではなくて。外見から外国人だと判断したり、逆に、国際性のアピールのために引っ張ったりとか。でも本質的には、異質な人だと思われてるのかなって。
A:やっぱりから、ハーフとして育つと、一生懸命いろんな環境に順応しようとして、もうずーっと生活してきてるから。受け入れられる部分をなんとか、利用してというかさ、そこを酷使して社会での居場所を作ろうとするのは当たり前のことだけど。そこが、結局、かえって偏見になったりとか。なんだろ、ハーフとしての存在が全て受け入れられてるって話ではないよね。だからメディアでのハーフブームで生きやすくなった部分もあれば、違和感を覚えたりするところもあるのかなあ。
このように、ブームであっても、批判であっても、本人の意思やアイデンティティを度外視して、ある目的にそって「外国人だ」「日本人だ」と大きく揺さぶられることに、違和感を覚える人も多いのです。そして、メディアの報道についても、「ハーフ」の存在そのものが社会に受け入れられているというよりは、ある部分――それは特に「都合が良い」と判断される部分――だけしか受け入れられていないと感じてしまうのです。
さて、あなたはなんと答えるだろう?
あらゆる指標や要素にそって、「日本人だ」「外国人だ」「日本人らしくない」と、毎日のように、あらゆるひとから声をかけられることは、結構しんどいことです。また外国人扱いされることが、就職差別など、具体的な問題へとつながる場合さえあります。
たとえば、ジェンダーの話に置き換えて考えてみるとどうでしょうか。
あなたの見た目や服装、身につけるもの、行動の一挙手一投足に注目が集まり、「あ、ここは男らしいね」「名前は男っぽいけど、この部分は女性らしいね」「やっぱり男性だ」「戸籍上の性別ってなんなの?」と日常生活のあらゆる場面で頻繁に聞かれていれば、かなり面倒だし、精神的に苦痛でしょう。
「ハーフ」を巡っても、これと似たような状況が起こっています(※1)。
今後、大坂選手をめぐるブームがすこし収まってきても、また別の論点やテーマから「日本人とは何か」という問いが繰り返し登場するでしょう。
アイデンティティの軸の判断基準は人それぞれ。
そして、その人のアイデンティティの自己決定権は、ほかの誰でもないその人自身にある。
アイデンティティをめぐる問いかけにたいして、大坂選手は「私は私」と答えた。
もしあなたが同じような質問を投げかけられたら。
その問いかけに対して、あなたは何と答えますか?
※1 日常生活の中で「日本人」と「外国人」とのどちらか一方に事細かに結び付けられてしまう状況を理解するためジェンダーの例え話を書いてみた。しかし、制度や認識においても人種・エスニック・民族の問題とジェンダー・セクシュアリティの問題は同一というわけではもちろんない。しかし、「男」と「女」、「日本人」と「外国人」のどちらも、どちらか一方に区分されることを要求する社会の構造的な問題点はどこかで似ているものとして、ここで記述してみた。
1 2