政治・社会

大坂なおみ選手のアイデンティティ~「ハイチ系の家庭で育ちました」

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記者会見の顛末

 まずアイデンティティとは個々人を特徴付けるさまざまな要素を指すものであり、結果的に国籍や人種も含まれるが、それだけではない。また、アイデンティティを問うこと自体は「失礼」ではない。

 今回に限っては、記者と通訳にアイデンティティ問題への理解が足りず、うまく言語化できていなかった。「古い日本人像」「古い価値観」という抽象的な概念を、詳しい説明もせずにぶつけたのは明らかな失敗だ。何について「古い」ことを指しているのかが全く分からない。インタビューにおいて質問の内容と意図を明確にすることは相手を問わず必須だが、特に外国人や非日本語話者の場合、どんな話題であっても共通認識に違いがあることがあり、先方からの「気遣い」による推測や「忖度」を期待してはいけない。

 通訳も「古い日本人像」「古い価値観」の意味を理解できておらず、または訳し方が分からず、「オールド・スタイル・ジャパニーズ」と通訳してしまった。この場合「style」は適語ではなく、テニス選手が「テニスのスタイル」と受け取るのは無理もない。大坂選手はまず通訳に「待って、私が? オールド・スタイル・ジャパニーズ?」「テニス?」と英語で聞いている。これに対しても通訳はうまく説明できず、「(記者が最初に言った)海外報道を私は読んでいないので……」と応答。ここで大坂選手は直接、記者に向かって英語で「テニスで?」と聞いている。

 聞き返されたあとの記者の説明も明確でなく、しかも「そういった価値観を変えようという動きが出てきていると思うのですが」と終わらせている。これは記者による社会事象の観察であり、質問の形をとっていない。したがって大坂選手は「これは質問?」と、疑問をそのまま口にした。

 上記の応答ののち、同じ記者がもうひとつ質問しようとすると司会者が「もう結構です」と遮り、会場から失笑が起こった。

いくつもあるアイデンティティ

 筆者はアメリカに長年暮らし、かつライターとして多くの人々にインタビューをおこなってきた。一時期、在米邦人対象の日本語雑誌に「移民」へのロング・インタビューを集中して執筆した時期があり、世界各国からニューヨークにやってきた人たち、計19カ国2地域からの26人に話を聞いている。いずれの人にもインタビューの最後に「アイデンティティ」を質問している。その答えはまさに十人十色といえるものだった。

 大坂選手のように子供の時期に移住した人もいれば、若い時期に野心と希望に燃えて来た人、大人になってから渡米した人もいる。人種ミックス(ハーフ)もいれば、ニューヨークで異人種間結婚をし、ミックスの子や孫を持つ人もいる。中には出身「国」よりも民族・部族・宗教にこだわりを持つ人もいた。米国市民権を取得してアメリカ国籍となっている人(多くは二重国籍)、出身国籍のまま永住権を持つ人が多かったが、父親がかつてビザなし移民だった人、自身がメキシコとの国境を徒歩で超えた元ビザなし移民もいた。

 例えば、ジャマイカで立ち上げ、のちにニューヨークに本拠を移したレゲエ専門レコード会社の創設者は、顔立ちがアジア人だった。聞くと両親はインドと中国からジャマイカへの移民であり、その女性に黒人の血は流れていなかった。しかし彼女は「私はジャマイカ人だからレゲエは私の音楽」と語った。

 グアテマラから19歳で移住した青年の人種民族宗教バックグラウンドは、これ以上はないと思えるほどに複雑だった。「父方の祖父母はエジプトとレバノン出身のアラブ系ユダヤ人で、南米ペルーに亡命」したのち、ニューヨークから出自不明の「アイルランド系かもしれない」男児を養子とし、育てた。この男児はスペイン語話者のユダヤ教徒として育ち、アラブ系ユダヤ人の女性と結婚。この夫婦から生まれたのが、インタビュー相手の青年だった。青年は「米国国勢調査の人種欄は空白のまま提出する」と言った。

 イギリス生まれの青年は黒人で、自分を「アフリカ人だ」と言明した。韓国出身の女性はヒジャブを被っていた。同時期にインタビューしたふたりの女性のうち、ひとりはフィリピン出身、もうひとりはフィリピンからドイツに移住した男性を父親に、ドイツで生まれていた。

日本は多様化への過渡期

 これほど多彩で複雑な背景を持つ人々が暮らすアメリカにおいて、アイデンティティは考えずに済む問題ではない。だからこそインタビュー対象者はそれぞれ真摯に答えてくれた。即答する人もいれば、時間をかけて考え込み、いくつものアイデンティティを羅列する人もいた。

 各自が抱える複数のアイデンティティは場面によって出たり、引っ込んだりする。例えば、他者からみればアメリカ黒人も、アフリカのセネガルからの移民も、カリブ海のハイチからの移民も同じ黒人かもしれない。事実、全員がアメリカという国に住む民でもあり、政治家が黒人差別発言を発したり、警官が黒人市民を問答無用に射殺するといった事件を起こすと、すべての黒人がアメリカに暮らす黒人という共通のアイデンティティのもと、抗議する。だが、出身国も言葉も宗教も食生活も滞米資格も異なる人々であり、日常生活ではそれぞれが異なるアイデンティティを持つ。

 トランプが今年1月にハイチを「shithole」(便所)と呼んで大きな批判を浴び、ニューヨークでもハイチ系アメリカ人たちによる抗議運動があった。ハイチ系としての強いアイデンティティを持つ大坂選手の一家がこの件をどう思ったかは推測するまでもないだろう。

 人はひとりでは生きていけないものだ。異なる属性の人たちとも交わり、どんどんと世界を広げる人ですら、同胞を必要とする。日々の生活の中で自分を取り巻く他者のうち、似通った境遇にある者にはおのずと親近感を抱き、近しくなる。具体的には、移民たちはコミュニティを形成して暮らし、母国語で話し、母国の食生活を続ける。アメリカで産んだ自分の子に祖国語を教える親も多い。自身の属性とアイデンティティを維持し、文化を継承しているのだ。

 このようにアメリカは多様な人が暮らす国だからこそ、個々人が複数の、かつ強いアイデンティティを抱えている。第三者がその詳細を知ることはなかなか困難だが、少なくとも複数のアイデンティティを持つ人々が存在することは常に意識しなければならない。そこを忘れると相手への敬意を欠き、摩擦、衝突もが起こる。

 面倒な事象ではあるが、これがアメリカを文化的に豊かな国にしている大きな一面だ。この国で生きる人々、中でも親の庇護下を抜けて自我を確立しつつ、他者との共生を始めなければならないティーンエイジャーにとってアイデンティティの模索は非常に大切な作業だ。中でも大坂選手のように複雑なバックグラウンドを持つ場合、親はそこを配慮した子育てをおこなう。こうしたアイデンティティの模索は大人になっても続くことが珍しくなく、したがってアメリカのメディアには個々のアイデンティティを問う記事やインタビュー、書店には同様の本が溢れている。

 日本も今後は多様化が進む。今はその過渡期だ。アメリカ黒人とのミックスである宮本エリアナさんがミス・ユニバース日本代表となり、「外観が日本を表していない」などと猛烈にバッシングされたのは、つい3年前のことだ。宮本さんを筆頭に、全国各地で年々増えている外国にルーツを持つ子供たち、若者たちは今もアイデンティティの確立に苦労をしている。そもそも宮本さんがミス・ユニバースに応募したのは、そうした環境を変えたかったからだ。

 いつの日か、大坂選手が日本に向けて自身のアイデンティティについて話してもよいと思う時がくれば、ふさわしい場とふさわしい聞き手を選んで、ぜひ語ってほしいと願う。
(堂本かおる)

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