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妄想食堂「あらゆる文脈を脱ぎ捨て、自由になる時間をくれた熱々の小籠包」

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(c)飯塚めり

 食べるのに集中力を要する料理というのはいろいろあるけれども、人をもっとも瞬間的に集中させてしまう食べものは、間違いなく小籠包だと思う。

 丹念に、しかし手早く折りたたまれたのであろう可憐な襞。それをつまんで持ち上げ、レンゲの上に迎え入れるときの緊張、お尻のたっぷりとした重み、そして薄皮をそっと破るとあふれ出す熱いスープ……。

 二年前、横浜の中華街に行ったときのことだ。当時私は大学を卒業したばかりで、将来への不安、過去の失敗や後悔、日常生活のこまごまとしたストレスなどに日々少しずつ圧迫されていた。どこで何をしていても、もやもやとした感情が、バックグラウンドで処理されるアプリケーションのごとく背中に貼り付いている。特別につらいとは感じなかった。これまでもそうした感情から完全に逃れて生活をしていたことなどほとんどなかったような気がするし、今後もそれは変わらないだろう。生きている以上仕方のないことだ、と思っていた。

 中華街で私は色々なお店の小籠包を食べた。お店の中で食べたのもあれば、屋台で買って外で食べたのもある。どれもとてもおいしかったが、一番記憶に残っているのは最初の一口、口の中をべろべろにただれさせた小籠包だ。あれよりおいしい小籠包を、私は後にも先にも食べたことがない。

 それはめちゃめちゃに熱かった。食べ方を知らなかったわけではない。火傷の恐れがあることはもちろん理解していたのに、私はどういうわけかものすごい誘惑に駆られて、ろくに冷まさないままに口の中へ押し込んでしまったのだった。

 瞬間、頭が真っ白になる。うわうわうわうわ、と体が叫ぶ。何かがどう、と押し寄せる。熱い。おいしい。大変だ。それら一つ一つを検分する隙も与えられず、すべてが一緒くたになって襲いかかってくる。蹂躙される。ものすごい幸福で、衝撃で、苦痛だった。ただひたすら口をもごもごさせるしかなく、どれくらいの間そうしていたのかも分からなかった。きっと現実では二、三分くらいのことだろう。だけどあれは現実ではない。どこか違う次元に飛ばされてしまったかのようだった。

 食べ終わった後はしばらく呆然としていた。口の中が痺れている。舌先でなぞると、上顎の粘膜がずるずるに剥けていた。痛い。皿の上にはまだ小籠包が残っている。今度は注意深く箸の先で皮を破り、湯気に目を凝らしながらふうふう息を吹き込む。火傷した舌が空気に触れて痛んだ。

 さっきよりは熱くないかな、今度は火傷しないかな。怯え、迷い、ためらいながら口に入れ、慎重に味わうと、今度は火傷せずに済んだ。済んだのに、なんとなく物足りない。小籠包以外のことに意識を割いてしまったからだ。その後も四種類くらいの小籠包を食べたが、最初の一口を超える体験は訪れなかった。

 あの危険な快楽はなんだったのか。一瞬の、猛烈な格闘みたいだった。小籠包にすべてを奪われて、自分というものがふわっと一枚上のレイヤーに飛んでしまったような感覚。あの瞬間だけは、ずっとまとわりついていた焦りや不安から完全に逃れていた。本当に何も考えられなかったのだ。

 忘れてしまいたい思い出や、なかったことにしたい失敗、ありふれた、だけど手のつけようがない悩みや不安。さまざまな文脈を引きずりながら、生活の中で積み重ねられていく負債を繰越しながら、私たちは生きている。何のしがらみにも縛られず、何の負い目も感じることもなく、まっさらな気持ちで過ごせる時間なんて、たぶん滅多に訪れない。

 でも、そこから自由になれる瞬間だって確かにあるのだ。何を媒介にしてもいい。純度の高い喜びや、とてつもない衝撃。あるいは心の全部を奪っていくような痛みや苦しみ。たった一瞬でも、あのとき私は間違いなく自由だった。何かに強く集中をさせられるということが、自分の生きる文脈から飛び立つということが、こんなにも気持ちがいいなんて知らなかった。

 帰りに、みなとみらいの観覧車に乗った。夜景はとてもきれいだったけれど、私はずっとあの小籠包のことを考えていた。いつだって自由になれる。口の中はまだ痛んだけれど、とても幸せだった。

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