社会

ネトウヨはなぜ被害者ぶるのか。「新潮45」問題から見る議論を拒む保守論壇の傾向

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 そんななか、当の小川榮太郎氏はフェイスブック投稿で、高橋源一郎氏や平野啓一郎氏を含む作家・ジャーナリスト13人、および、いくつかのネットニュースの記事(そのなかには、wezzyが配信した「「痴漢も生きづらい」小川榮太郎の破綻した論考を載せた「新潮45」」も含まれている)を名指ししたうえで、このように綴った。

<以下の方のツィッター、報道で、私への暴言か、新潮45編集部への恫喝がなされています。高橋源一郎氏は私の文章を便所の落書きだと言いましたが、高橋氏の小説とは違い、私の一文は便所の落書きではありません。れっきとした「文章」です。私は主義主張や好みが違おうと、大江健三郎氏や村上春樹氏の文章を汚い言葉で難じた事はありません。なぜならそれは確かに「文章」として成立しているからです。私の「文章」も一字一句考えぬかれたものです。反論があれば「きちんとした文章」で反論してください。多くの人や報道機関が新潮45を恫喝している神経は丸山眞男が聴けば「君らのやっている事はナチス並の蛮行だ」と言ったでしょう>

 ここで小川氏は、異論を<私への暴言か、新潮45編集部への恫喝>と認識している旨を書いているが、それらは決して<暴言>でも<恫喝>でもない。この歪んだ認知はどういうことだろう。

 人生の様々な場面で不当な扱いを受けて苦しんでいるLGBTの人々に対し、強い差別感情をむき出しにしながら足蹴にした文章を書いたこと。また、<LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもないが、性の平等化を盾にとったポストマルクス主義の変種に違いあるまい>(前掲「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」より)といった一文に象徴されるような、書き手としての不見識や不誠実さなどに起因した彼の文章に対する「批判」である。

 しかし、彼はそれを、自らの意見に対してなされたものではなく、自分自身に向けられた“攻撃”と捉えるようだ。これでは「議論」にはならない。

保守論壇全体に共通する傾向

 こういった認識は、小川氏個人の問題ではなく、保守論壇全体に通底するものなのかもしれない。

 問題となっている「特別企画 そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」の特集リード文に書かれた文章が、そういった傾向を端的に示している。

<8月号の特集「日本を不幸にする『朝日新聞』」の中の一本、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」が、見当外れの大バッシングに見舞われた。主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった。あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする>

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