社会

ネトウヨはなぜ被害者ぶるのか。「新潮45」問題から見る議論を拒む保守論壇の傾向

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 つまり、「新潮45」編集部は、杉田水脈衆議院議員の原稿に対して向けられた問題提起を<大バッシング>と認識したようなのだ。

 LGBTに関する事実誤認や偏見を多く含みながら、社会システムのせいで様々な困難を抱えるLGBTの人々を突き放し、愚弄するような文章が掲載されたこと。しかも、その文章を書いたのが、政権与党に属する現職の国会議員であったことに対して「批判」が起きたのが一連の出来事だ。

 「バッシング」という言葉には、「不当な世論の批判(unfair public criticism)」(ロングマン現代英英辞典より)といった意味が含まれるが、「不当」ではないだろう。悪口でも、暴言でもなく、杉田議員が寄稿した文章に対する反論なのだから。

 そして、そういった認識が広まってしまっていることの象徴といえるのが、2017年6月23日に今井絵理子参議院議員がツイッター上に投稿したこのような言葉だ。

<今日から都議会議員選挙が始まります!「批判なき選挙、批判なき政治」を目指して、子どもたちに堂々と胸を張って見せられるような選挙応援をします>

 民主主義が健全なかたちで保たれるためには、様々な価値観をもつ人々が、様々な角度から意見を言っていく作業が必要不可欠だ。権力者や多数派に属する人にとっては、耳の痛い意見や邪魔な意見もあるかもしれないが、そういった主張も受け止め、皆の考えを擦り合わせながら結論を出していくことで、社会は正しい一歩を踏み出すことができる。

 そう考えれば、<批判なき選挙、批判なき政治>という発想が、「独裁」を肯定する、いかに危ない発想か分かるだろう。

 そして、こういった傾向は、結果として、自分たちとは違う価値観をもつ人を「敵」と認識して排除する考えへとつながっていく。

健全な「議論」は可能なのか

 前掲「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」のなかで小川氏は、杉田議員に対する評価をこのように綴っている。

<杉田氏は概して弱者の名のもとにおけるマスコミの異常な同調圧力、それらと連動しながら強化されてきた様々な弱者利権、それらがしばしば外国による日本浸食工作と繋がっている事の深刻な害毒と戦ってきた人だ>

 保守論壇ではしばしば外国人にヘイトが向けられるが、これも自分たちと異なる存在を「敵」とみなして排除しようとするからであり、LGBTの人々に対してここまで愚弄した物言いができるのも、LGBTの人々のことを理解できないがゆえに、「敵」とみなしているからであろう。

 「意見」には「意見」をぶつけて、健全な「議論」をしたい──その思いは皆が共通して持っているはずだが、一部のネトウヨ的な保守論壇および政治家界隈でこういった「排外」「排斥」の姿勢が横行している現状において、それはなかなか容易なことではないのかもしれない。

(倉野尾 実)

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