政治・社会

ちぎりとられたダイバーシティ――大坂なおみ選手が可視化した人々

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 空転するなかで、「~だと思う」とお互いに述べるだけの印象論の言い合い合戦と呼んでしまってもよさそうな現状を前に「そのうち静かになるから、ほっとけばいい」と思われるかもしれません。

 ですが、そうもいきません。

 空転するなかで、いつの間にか国籍が「個人の選択や努力の問題」として回収されるような言葉ばかりが溢れてしまったり、本人の声に耳を傾けることなく「日本人として迎え入れるか否か」という話題だけが過熱してしまったり、心ない言葉が「ハーフ」や海外ルーツの人々、その身の回りの人々にまで、流れ弾のように突き刺さる状況が起きているからです。

 そうした空転のなかで、通奏低音として鳴り響いているのは「役に立つ/役に立たない」という基準で、大坂なおみさんや「ハーフ」、海外ルーツをもつ人々を区別し、評価し、枠づけ、他者化したり、引き入れようとする言葉の群れではないでしょうか。

 まるで、ちぎりとられてしまったようです。

 大坂なおみという存在を織り上げてきた多様な要素、過程、経験、資源、力学。それを「役に立つ/役に立たない」という基準のもとで、ごく一部をちぎりとるかのように、手をのばし、まなざし、評価し、あれやこれやと議論をする、その振る舞い。「ハーフ」とひと括りにされた人々も、「特例」の対象として「快挙」を心待ちにされる人々も、それぞれに、多様性(ダイバーシティ)をもちながら、その多様性によって織り上げられているはずです。その織り上げられたものの中から、「役に立ちそう」な部分のみを、ちぎり、むしり、「日本国民」にとって活用できそうなモノとして扱おうとする、その手つき。それを感じさせる言葉の群れ。個々人を「ほかでもないその人」として織り上げる多様性を、ちぎりとろうとする、その視線。

 今思えば、冒頭にあげた、平気で流し見できそうだったはずのメルマガの広告に、かすかな不安を感じ取ってしまったのは、彼女や海外ルーツを「役に立つ/立たない」という基準で眺める視線や手つきとリンクしてしまう部分を、まざまざと見せつけられたから、なのかもしれません。

 大坂なおみ選手をめぐって、彼女のアイデンティティを問いかける言葉が飛び交うときに感じる違和感も、おそらく、このあたりに原因があります。

 「彼女の快挙を日本人として喜んで良いのだろうか」「日本人の選手として彼女の優勝を喜んで良いだろうか」という言葉の片隅に、どこかでうっすらと、「彼女を日本人として役に立つ存在とみなしていいのか」というニュアンスが、ぬるりと、ひそんでいないでしょうか。

 おそらく、そのニュアンスを察知しているのは僕だけではないと思います。

 「仕草が日本人らしいじゃないか」という「褒め言葉」のつもりらしい表現がどうにも上滑りして聞こえてしまうのも、「テニス国籍が日本だからもっと喜ぼう」という言葉がピンとこないのも、さらには、彼女にアイデンティティを問いかけた記者が質問の仕方もあいまって炎上しているのも、「彼女を日本人として役に立つ存在とみなしていいのか」という視線が、この日本社会にはどうしようもなく「ある」のだ、ということを、鮮明に、ありありと、あらわにしてしまっているからではないでしょうか。

 ところで、このように思われるかもしれません。

「『ハーフ』って何かと大変らしいけど、昔よりは、今のほうがまだマシなんじゃない? ハーフの選手とか芸能人もでてきて、ハーフを見る目がポジティブなものに変わってる気がするし。もっとしんどい人いっぱいいると思う」。

 なるほど。もしかしたら「まだマシ」なのかもしれません。

 いわゆる「鎖国令」と呼ばれてきた数々の方策によって、海外に追放された時代よりも。戦時中はもちろん戦後まで続いた「役に立つかどうか」という視線のもとで実施された「混血児調査」の時代よりも。占領期に電車の網棚や街路の一角、橋の下、銭湯の脱衣所で、社会的に「捨てられてきた」時代よりも。相対的に現代は「まだマシ」なのかもしれません。

 ですが、幼少期に石を投げられたことやボコボコにされたこと、大人になっても度重なる職務質問や就職活動での困難や国家間のいざこざに右往左往させられること。日常で繰り返される他者化のなかで、それを「まだマシ」だと言ってしまうことは、他者化を生み出す仕組みや視線、手つきを維持することにほかなりません。

 なにより、「ハーフ」や海外ルーツを振り回す仕組みや視線、手つきは、「ハーフ」や海外ルーツに限らず、ほかのマイノリティと呼ばれる人々、ひいてはマジョリティをも掴んで離さない社会の一部です。実際に、どうでしょうか。身の回りに、「役に立つ/役に立たない」という基準で、人々の多様性をちぎりとろうする視線や手つきが溢れていないでしょうか。

 そうした仕組みや視線、手つきにどのように向き合い、必要とあればいかに「ツッコミ」を出して、手を動かしながら、調整をかけたり、抗ったりできるのか。

 今、試されているのは、わたしたちが自らの身振りを見直し、耳を澄ませながら、考えながら「まだマシ」な状況をつくるべく動き出すことなのではないでしょうか。

 文化社会学と文化研究を専門とする若手研究者である自分にとっても、それは大きな課題です。論文を書いたり、書籍に関わるだけでなく、あと1歩、いや、せめて「半歩」から、そこから何ができるのか。大坂なおみ選手にまつわる言葉に触れるたびに、考え続ける日々です。

 さて、大坂なおみ選手は、その見事なパフォーマンスによって、優勝を勝ち取りました。しかし、彼女のパフォーマンスは、同時に、人々の姿を可視化したともいえます。「日本人らしさ」について、ぶっきらぼうに、あるいは饒舌に語る人々。頼まれてもいないのに、「ハーフ」や海外ルーツのアイデンティティについて枠づけようとする人々。心無い言葉を吐き出し続ける人々。そのこと自体に怒る人、嘆く人、焦る人、沸き立つ人。そんなことおかまいなしに、ファンとして振舞おうとする人。アスリートとして眺めようとする人。身近な誰かを思い浮かべる人。自分自身についてあれこれ考えたり調べだしたりする人。「役に立つ/役に立たない」という基準で、多様性をちぎりとろうとする人々。

 わたしたちは、どのような言葉や身振りをもって、彼女の放ったボールを打ち返すことができるでしょうか。いや、そもそも、わたしたちは、大坂なおみ選手にボールを打ち込んでもらえるような、まっとうなプレーヤーなのでしょうか。

ケイン樹里安
大阪市立大学都市文化研究センター研究員,文化社会学/文化研究。HAFU TALK共同代表。主著『「ハーフ」の技芸と社会的身体ーーSNSを介した「出会い」の場を事例に』(年報カルチュラル・スタディーズ  (5) 163-184  2017年6月)『「ハーフ」のドラマトゥルギーのために――ソーシャルメディア,「労働」,ジェンダー秩序』(『市大社会学』 (15) 20-38   2018年3月)「5章「『あるある話』をくり出すハーフタレント」(『いろいろあるコミュニケーションの社会学』北樹出版  2018年4月)

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