社会

大坂なおみ/玉城デニー/バラク・オバマ〜他者のアイデンティティを考えてみる

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大坂なおみ「英語が完全ではない」? 「ハイチ系への差別」?

 9月23日付のフライデーの記事『全米オープン制覇 大坂なおみが日本を棄てて米国籍を選ぶ可能性』(Yahoo!にも転載)の文中2カ所に、主に在米邦人から疑問の声が上がった。

 まず、この箇所。

「渡米後の大坂さんは、父の一族であるハイチコミュニティの中で育っており、中学も通信制の学校を選択しています。ハイチはクレオール語とフランス語が母語なので、大坂さんの英語は完全なネイティブとは言い切れない部分もある」

 大坂選手は3歳で日本からニューヨーク州ロングアイランドにあるハイチ系コミュニティに両親、姉とともに移住。ニューヨークタイムス・マガジンの記事(8/23付)には、同居した父方の祖父母は英語を話さず、ハイチ・クリオール語のみを使っていたとある。ハイチではフランス語とハイチ・クリオール語が公用語だ。行政やビジネスではフランス語が使われ、高等教育層を含む国民の4割がフランス語を話すが、ほぼ全国民がハイチ・クリオール語を使う。また、日本人である母親の環さんは娘たちに日本語を使い、姉の大坂マリ選手は日本語も流暢となったが、大坂選手の日本語はつたない。

 2006年、一家はフロリダ州に移る。姉妹をテニスに集中させるためで、以後、ふたりは通学せず、ホームスクールで学んでいる。フライデーの記事はこのことも大坂選手の英語が「ネイティブではない」理由としているが、3歳から8〜9歳の言語が発達・定着する時期にニューヨーク・ロングアイランドで地元の小学校に通っている。大坂選手のインタビューを聞いても、かすかなカリブ海系訛りが聞き取れ、まれにアメリカ黒人英語が混ざることもあるが、いたって標準的なアメリカ英語を話している。

 ちなみに筆者が暮らすニューヨーク市では、英語が完全でない子供は公立校の場合、小学校入学と同時にバイリンガル教育を受けねばならず、やがて母国語とのバイリンガルになる。成人後に移住した親の英語はさほど上達しないまま、子供は好成績を上げて進学し、中央社会で成功する例も少なくない。ただし、住むエスニック・コミュニティが大きく、両親以外の血縁者、友人、近隣住人など、母国語使用者との接点が多い生活環境の場合、英語に母国語の訛りが残ることはある。

 こうした事情を知る、自身も移民の在米者として、記事にある「(大坂選手の英語は)完全なネイティブとは言い切れない」は的を射ていないと言わざるを得ない。

ハイチという国

 次に、以下の部分。

「(父親の)レオナルドさんが娘の“テニスにおける国籍“を日本にしたのは(中略)ひとつにはアメリカのメインコミュニティに入りきれていない自分たちでは、米国人選手の中で差別される可能性があると考えたのでしょう」

 筆者はテニス界の内情はまったく知らないが、アメリカにはウェスト・インディアン(カリブ海系)、なかでもハイチ系への差別が存在する。

 前回の記事「大坂なおみ選手のアイデンティティ〜『ハイチ系の家庭で育ちました』」に異なるアイデンティティの例として、同じ黒人であってもアメリカ黒人、アフリカのセネガルからの移民、カリブ海のハイチからの移民はそれぞれ固有の文化とアイデンティティを持つと書いた。実は他にも、アフリカ諸国、カリブ海諸国の中で国により、または民族部族により、アイデンティティのさらなる細分化がある。

 ニューヨーク市にはウェスト・インディアンの大きなコミュニティがある。その中で最大の人口を持つのはジャマイカ、ついでハイチだ。ハイチ人は人口こそ多いものの、英語話者が多数を占めるウェスト・インディアンの中では言語的にマイノリティだ。加えてハイチは政情不安のうえに非常に貧しく、「西半球で最も貧しい国」というステレオタイプが定着してしまっている。

 ハイチは貧しさゆえに材木目当ての山林伐採が行き過ぎ、ハリケーンのたびに大洪水が起こる。そこからの復興が果たせないまま、2010年に大地震が起こり、国の一部が壊滅状態となった。そのため、当時のオバマ政権は島の貧困から逃れ、仕事を求めてすでに渡米していた大量のビザなし移民の強制送還を一時的に差し止め、ハイチからの避難民も受け入れた(トランプはこの措置の廃止を決定済み)。長年にわたるこうした背景があり、ハイチ人は他のウェスト・インディアンから見下されることも少なくなかった。

 また、ハイチだけでなく、他のカリブ海諸国からであれ、アフリカ諸国からであれ、移民の多くは母国の貧しさゆえに職を求めてアメリカへやってきている。アメリカ黒人は黒人ゆえにアメリカ中央社会からの差別・偏見の対象となってはいるが、国としては豊かなアメリカの民であり、ビザの心配も当然ない。したがって、そこには人種による区分ではなく、「アメリカ人/移民」の二層構造とアイデンティティの違いがある。

 そして、アメリカ人からは「ウェスト・インディアン」と十把一絡げにされがちなカリブ海系にはジャマイカ、ハイチだけでなく、多数の異なる島国出身者が含まれ、それぞれが似て非なる歴史・文化・アイデンティティを持つ。ウェスト・インディアンの中で独自のヒエラルキーが形成される理由だ。そして、ハイチはほぼ底辺に置かれる。

 若く、しかも子供の頃からテニスに専念してきた大坂選手のハイチ人としての経験、体験は分からないが、父親、祖父母はこうした事象を知り尽くしているはずだ。

 そもそもハイチ人としてではなく、黒人としての差別が存在する。USオープン決勝戦でのセリーナ・ウィリアムス選手の審判への抗議は大きく批判されたが、リリーホワイト(白人中心)であったテニス界で数少ない黒人選手である彼女がなんらかの差別体験を持っていることは想像に難くない。オバマ氏でさえ、子供の頃から成人後、さらには大統領当選後もさまざまな黒人差別を体験している。

 フライデーの記事にある「アメリカのメインコミュニティに入りきれていない自分たちでは、米国人選手の中で差別される可能性があると考えたのでしょう」が正しい推論か否かは筆者には判断できないが、アメリカ社会に黒人差別、ハイチ人差別があることは確たる事実である。

他者のアイデンティティを知る必要

 このようにそれぞれの国、それぞれの人種、それぞれの民族に独自の歴史・文化・アイデンティティがあり、当事者でなければ分からない事象も多い。かくいう筆者も日本からアメリカへの移民であり、黒人地区に住んではいるが黒人ではなく、ハイチ系でもなく、すべての事象を知るわけではもちろんない。

 それでも多様性の都市ニューヨークでなんとか暮らしていけるのは、少なくとも「自分の知らないアイデンティティを持つ人々がいる」ことを念頭に置いているからだ。そこからさらに踏み込み、理解を深めるには、当事者の声を聞くしかない。

 日本も今後は多様化が進む。他者のアイデンティティを知り、理解し、共生していくことになる。星野ルネ、大坂なおみ、玉城デニーといった多様性を持つ人々がメディアに出てくるのは好都合だ。彼らは自身のアイデンティティについて語ってくれるだろう。それを手掛かりに、自分の周囲に暮らす、自分とは異なるアイデンティティを持つ人たちへの理解を深めることが可能だ。

 アイデンティティは語ってよい、語るべき、そして耳を傾けるべきものなのだ。
(堂本かおる)

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