性差別?フェミニズム?恋する人間はみんなバカ?~『コジ・ファン・トゥッテ』の一筋縄ではいかない世界

連載 2018.10.10 16:15

 皆さんはオペラはお好きですか? 以前扱ったバレエ同様、チケットが高いので行ったことはないという方も多いかもしれません。あらゆる仕掛けを使って目と耳を楽しませてくれるとても豪華な芸術であるオペラは、自分が興味を持てるポイントさえ見つけられれば十分楽しめる芸術だと思います。既にこの連載でもプッチーニの『ラ・ボエーム』を扱いました。

 今回の記事では、しばしば性差別的だと批判されるモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ、あるいは恋人たちの学校』をあえてとりあげます。このオペラは問題作かつ人気作で、ニューヨークのメトロポリタンオペラで上演された作品を撮影して世界各地の映画館で見せるMETライブビューイングの一環として最近日本で上映された他、関東に限っても10月17~18日に国立音楽大学で、11月10日~11日には日生劇場で上演されるなど、頻繁に舞台にかけられる作品です。私はこのオペラが好きで、とくにモーツァルトの他のオペラに比べてそんなに性差別的だとは思えないのですが、それはなぜかということをお話ししたいと思います。

※『コジ・ファン・トゥッテ』の歌詞の日本語訳は全てオペラ対訳ライブラリー版に拠ります。

とんでもないバカ話

 ロレンツォ・ダ・ポンテがイタリア語の台本を書き、モーツァルトが作曲した『コジ・ファン・トゥッテ』は、1790年にウィーンで初演されました。複数人の掛け合いやデュエットが多く、オペラというよりはお芝居を歌い上げているような印象を与える作品です。タイトルはイタリア語で「女はみんなこうしたもの」という意味です。

 このタイトルがくせものです。『コジ・ファン・トゥッテ』の舞台は18世紀のナポリで、主人公はフィオルディリージとドラベッラの姉妹と、それぞれの恋人である軍人のグリエルモとフェルランドです。グリエルモとフェルランドは年上の哲学者ドン・アルフォンソに、女はどんなに一途で愛情深く見えても浮気をするものだと言われ、恋人たちの愛を試すため、出征するフリをしてアルバニア人に変装し、姉妹に近付きます。最初はまったく脈がなかった姉妹ですが、ドラベッラがまず変装したグリエルモに心を動かされ、最後まで悩んでいたフィオルディリージもとうとう姿を変えたフェルランドを愛するようになります。姉妹は偽アルバニア人たちと結婚することにしますが、最後に全てが明かされ、結局恋人たちは元の鞘に戻ってフィオルディリージはグリエルモと、ドラベッラはフェルランドと結婚することになります。

 「ちょっと待って!?」と思いますよね。終盤にフィオルディリージが悩んだ末、フェルランドと熱烈なデュエットをする展開があり、ホンモノの情熱を感じさせるドラマティックな音楽がつけられています。女たちについては、あれだけ覚悟して新しい恋人を愛すると決めたのに、こんなにすんなり自分たちを騙した元の恋人とくっついていいのか……? と思いますし、男たちのほうも、すぐに気持ちを入れ替えて元の恋人のところに戻ってしまうというのはビックリです。

 正直、話の展開はけっこうメチャクチャだと思います。しかも、これ以外にも途中でバカ展開がいくつかあり、姉妹の気を引こうと男たちが恋煩いで自殺をはかったフリをし、それをB級SF映画に出てくるようなマッドサイエンティストのヘンテコ治療で救命する(真似をする)という抱腹絶倒の場面があります。オペラというと難解で高尚な内容を想像するかもしれませんが、『コジ・ファン・トゥッテ』は相当なぶっとび話なのです。

性差別オペラ?

wikipediaより

 このお話でよく言及されるのが、展開が性差別だということです。METライブビューイングについている出演者・スタッフインタビューでも、このオペラがミソジニー的なのではないかという話題が出ていました。恋人の愛を男性が賭けの対象にし、女はみんな浮気性なのだという結論に落ち着くこの物語は、たしかに一見、ひどく女をバカにしているように見えます。

 しかしながら、私は初めてこのオペラを見た時、意外にもそんなに性差別的だとは思いませんでした。モーツァルトとダ・ポンテが共作したオペラには他に『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』がありますが、『フィガロの結婚』の女たちはセクハラや夫の浮気に苦しんでおり、『ドン・ジョヴァンニ』では気の毒な女たちが色男からとんでもない目にあわされます。モーツァルトの代表作では他に『魔笛』もありますが、このオペラでも最初は優しいお母さんとして出てきた夜の女王が終盤は毒親になってしまうと展開があります。こうした作品群に比べると、『コジ・ファン・トゥッテ』に出てくる3人の女たち、つまりヒロインである姉妹とそのメイドであるデスピーナは、よりのびのびした姿で生き生きと描かれているように思えました。

 まず、フィオルディリージとドラベッラは恋愛や結婚について自由意志で何でも決められる立場にあるというのが、このオペラを面白くしていると思います。古典的な恋愛ものでは、親の反対とか、身分の違いとか、社会的な要因で女の意志が阻まれてしまうことが多いのですが、『コジ・ファン・トゥッテ』におけるこの姉妹は、おそらく親がいなくて自前の財産があるため、完全に自分の意志だけで身の振り方を決められます。彼女たちの恋の障壁は、自らの心だけです。このオペラは、女は誰はばかることなく自由に恋人を選んでよいのだという考えに基づいています。途中でメイドのデスピーナが、女には「自由に思う存分、恋をする」権利があり、男同様、浮気をしたり楽しく遊んだりしてもいいのだと宣言するところがあり、ここは大変楽しい場面になっています(第1幕第9景)。

 男たちは女の自由意志を巡って争っていて、策略は使っても暴力は論外、自分の愛情や魅力をアピールして意中の相手の気を引くことが大事だと考えています。18世紀は啓蒙の時代であり、モーツァルトは啓蒙時代の作曲家だと言われることがあります。啓蒙の時代は人間の理性や自由意志を尊重していたにもかかわらず、女はこの「人間」に入れてもらえないこともよくありました。しかしながら『コジ・ファン・トゥッテ』では、女たちは少なくとも自由意志や葛藤のある人間として描かれています。この作品では、女の性的な決定権が実はけっこう尊重されているのです。

 さらにこの作品では、一見女たちより優位に立っているように見える男たちのほうが、むしろ浅はかで思慮に欠けるように見えるということがよく指摘されています。そもそもドン・アルフォンソにそそのかされて恋人たちの愛情を試そうとするという発想じたいがアホっぽいし、自分たちで一生懸命口説いておいて結果に動揺するなどというのは自業自得です。振付家で演出家でもあるアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、このオペラの音楽は複雑で、モーツァルトはドン・アルフォンソの男女に関する偉そうなお説教に盛り上りに欠ける音楽をつけている一方、女たちの内面を男たちよりはるかに深みのあるものとして描いていると指摘しています。『コジ・ファン・トゥッテ』では男も女も恋のことでは右往左往してばかりで、どちらもたいして賢くはなく、むしろ女たちのほうが人間味があるくらいです。

恋する人はみんなバカ

 『コジ・ファン・トゥッテ』は性差別的なのか、フェミニズム的なのか、というのは難しい問いです。台本があまりにも女性を一般化してバカにしていると考えると人も当然いるし、一方でフェミニスト的側面が垣間見える作品だと考える人もいます。演出によって全く印象が異なってくる作品なので、上演によって性差別的に見えたり、フェミニスト的に見えたりするのでしょう。おそらく正解はありません。

 私自身は、このオペラは、非常に人間全体に対して冷めていて、かつ優しい作品だと思います。『コジ・ファン・トゥッテ』は、性愛のことになるとどんな人間でも理性を失うということを、辛辣さと共感の両方をこめて描いています。性別を問わず人間には自由意志があることが強調されていますが、皆せっかくの自由意志をバカなことにばかり使っています。フィオルディリージやドラベッラは優しくて寂しがりで、懇願されるとついつい他の男になびいてしまうし、グリエルモとフェルランドは知恵を完全に無駄遣いして、恋人の愛を試すなんていうくだらないことに夢中です。

 劇中でドラベッラが歌う「恋は泥棒」というアリアがありますが、これによると恋は「自由を奪って」いくもので、人間の理性を盗んでしまいます。以前『十二夜』を取り上げた時に解説したように、シェイクスピアの時代には、人は恋をすると皆大バカになるということを描いた作品がたくさんありました。『コジ・ファン・トゥッテ』もその系列にある作品だと思います。そして、『十二夜』も『コジ・ファン・トゥッテ』も、恋のせいでバカになる人間を笑いつつ、それでもいいじゃないか、人はみんなそういうものじゃないか、という優しいあきらめを示しています。恋をしたことがある人、これからするかもしれない人は、たぶん『コジ・ファン・トゥッテ』に出てくる登場人物を笑えません。

参考文献
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト『コシ・ファン・トゥッテ 改訂新版』オペラ対訳ライブラリー、小瀬村幸子訳、音楽之友社、2018。
Charles Ford, Così?: Sexual Politics in Mozart’s Operas, Manchester University Press, 1991.

北村紗衣

2018.10.10 16:15

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。

twitter:@Cristoforou

ブログ:Commentarius Saevus

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