自分の場合を考えてみる。
夫とは結婚する前4年以上同棲していて、家事は私が100%やっていたのに、何もできない(やろうとしない)夫:当時の彼氏にそこまで苛立ちを持ったことはなかった。
でも結婚してすぐに子供が産まれ、子育てというなかなかの業務量があるタスクが加わり、更に出産を機に私の完璧主義さも磨きがかかった。ゆえに掃除も洗濯も洗い物も、常にきちんとやった状態じゃなければ気が済まない。
仕事もしているから、時間的・体力的にキャパオーバー。
それなのに夫は独身時代とさほど変化もなく、毎日ゴロゴロ。靴下も洗濯機に入れられない。出したらしまえない、開けたら閉められない。深夜までゲームをして翌朝10時まで寝ている……。
何でお前ばかり独身生活送ってんだよ!! と怒鳴りたくなるが、私は「対等さ」を求めるがゆえに怒っていることになる。私が夫を「目の前の欲求に勝てないダメ夫」だと思わず、「おおらかで優しい夫」などとプラスに思えたなら、家事・育児の具体的な負担パーセンテージなどどうでも良くなる気がしている。
今までだって、夫が自分から20%のことをやっていたら、私は穏やかな気持ちで80%のことを笑顔でこなせていたし、既に「半分ずつじゃなければならない」わけじゃないという答えは出ていたのかもしれない。
その時の私を満足させていたものは一体なんだったんだろうか。振り返ってみると、その幸せな感情は「一体化」」や「共同意識」にあったような気がする。
一緒のものを一緒に守ろうとする気持ちや姿勢で、これは決して物理的なパーセンテージによるものではない。
グータラ夫には夫なりの独身時代とはガラリと変化した(家族を背負っているゆえの)タスクが仕事先にあるのかもしれないし、家事に対する要求だって私個人のモノサシが基準となっている。
それに、夫が帰宅した時に私は夫を労う気持ちにはなれなかった。毎日私ばかり家事も子育てもやって、睡眠時間も著しく少ない。なのに毎日仕事を終えて夫の夕食の支度もしている! とベースが不満だらけだったからだ。帰るや否や夫がスマホ漫画を読み始めて料理を冷まそうもんなら、「頼むから単身赴任してくれないかな」まで願っていた。
でも、私が心から求めていたのが「一体化」「共同意識」だったのなら、私は夫が1日従事してきたことに対しそれらの感情を持っていただろうか。労ったり、夫が話す仕事での出来事に本気で耳を傾けたり。姿勢として表現していただろうか。「当たり前だから」とスルーしていたかもしれない。
我が家で「対等に子育て」はムリだと気づいた
具体的にこなす業務量のパーセンテージはさほど重要ではないと気づいたからこそ、子供に対する意識の持ち方も「同じ」じゃなければならないわけではないと思えた。
私が“ボス”夫が“サブ”……まずこの構図をどうにかしなければと思っていたけれど、別にこれで良いのではないかと気づく。
「対等」にこだわってきたけれど、業務量や責任のパーセンテージを均一にした結果、夫がムスっとした顔で家事や子育てをしていたり、こだわりを持つようになって「これはこうしてくれ」と夫が妙に威圧的になったとしたら、私にとっては決して幸せじゃない。
子育てについて私がいちいち指示まがいのことをするのも、それで成立するのなら別に良いのかもしれない。
夫がいちいち私に頼ろうとすることに不満だったのは「私だって忙しいんだから、それぐらいやってよ!」的なパーセンテージが基準となった考えからだ。本来の私のポリシーには大きく反するが、男性なんてそんなもの。できなくて不安だから頼ってるんだ、と思えたらかなりラクだ。
「それじゃダメだ! 日本の女性(妻)たちよ! 声を上げよ!!」と常に思ってきたけれど、この課題はきっと今すぐ根本的に変化するようなことではない。
「家事・子育ては女の仕事」の時代からやっと、「俺頑張ってパパやってるよ! 当然だけどね(笑)」なんて言いたがるいわゆる“イクメンパパ”がちらほら誕生したぐらいだ。
どんなに平等を訴えかけたところで、意思を固めれば固めるほど、私はとてもしんどい生活を強いられていると感じてしまう。
今でも、既婚女性が話す「オトコって子供同然だから何もできないのよ~仕方ないよね」類の話を聞けば「いやいやそれで良いのか!?」と思うけれど、彼女自身が精神的にラクな生活を送るべく自己で折り合いをつけているのなら、それはそれで素晴らしいことだ。