
『SUNNY 強い気持ち・強い愛』公式ブログより
『SUNNY 強い気持ち・強い愛』 大根仁監督
私は公開当時からカン・ヒョンチョル監督作品『サニー 永遠の仲間たち』(11)が本当に大好きで、大切な映画のひとつだった。それをあの大根仁監督がリメイクするというニュースを聞いたときからすごくイヤな予感しかしなかったが、しかしその予感の是非を確かめるために劇場へ向かった。
この映画のファーストカットは、ルーズソックス&ミニスカート姿の女子高生たちの足元のアップだ。その時点ですでに「大根監督は女子高生をひとりの人間ではなく、あくまでそーゆー”イメージ”としてしか捉えてないんだな」ということが十分に伝わってきていきなりげんなり(それに続くカットはベッドに横たわる篠原涼子のナマ足……)しつつも、なんとかラストまで鑑賞した。
結果としては、
1)脳内「コギャル」を上から目線で肯定する傲慢さ
2)「憧れの存在」に対する想像力不足
という主に2つのポイント(細かなところは山のようにある)が超不快だったので、その根拠を今から述べる。
1)90年代の女子高生をコギャルに均一化して上から目線で肯定する傲慢さ
大根仁監督作品『SUNNY 強い気持ち・強い愛』は、韓国の映画『サニー 永遠の仲間たち』のリメイクである。ただし、オリジナル版は主人公・ナミがかつての親友が乳がんで死期が間近だと知ったことをきっかけに70〜80年代の青春を回顧するストーリーなのに対し、大根版は篠原涼子演じる主人公・奈美がコギャルだった90年代の女子高生時代を振りかえるというアレンジがされている。
70〜80年代の韓国は、軍事政権による独裁政治が抗う若者たちによる社会運動の激化で不安定な社会情勢であり、最近では日本でも大ヒットした韓国映画『タクシー運転手』と重なる。ナミと仲間たちはそんな時代を生きている
社会や家庭環境は、いやおうなしに彼女たちを取り囲み押し流そうとするだろう。オリジナル版の「仲間たち」とは、そこから一時的にであれ自分たちを切り離すことができる「特別な時間」のことである。いいかえれば、「特別な時間」を描くことと、彼女たちが生きる「日常」を描くことはセットになっているのだ。
オリジナル版について、カン監督はインタビューで次のように言っている。
「(……)そういう意味で男女の友情というものは変わらないと思います。この映画は女性の視点ではありますが、女性映画というわけではなく、人生をテーマとした映画だと思っています。もし全部のキャラクターをそっくり男性に置き換えでも同じ映画が撮れると信じています」
だからオリジナル版では、「人生=日常」と「仲間たち=特別な時間」の二つが丁寧に描いている。ラストのお葬式シーンでの涙と笑い、あるいは仲間の死と復活は、まさにその二つが交錯する瞬間に起こるのだ。
では、一方の大根版『SUNNY』はどうなっているか。
90年代末の日本は、バブルの崩壊や、阪神淡路大震災とオウム事件、さらにはサカキバラ事件に代表される「若者たち」の不穏な暴力がそこにはあった(キレる10代とか、学級崩壊などが連日メディアによく取り上げられていた)。たとえば大根版に出てくる『エヴァンゲリオン』も、そのような時代の空気を吸うことで生まれた作品だったと思う。
しかし大根版では、こういった社会的な要素はほとんど描かれず、コギャルにだけ極端にスポットが当てられている。当時でさえよっぽど荒れた都内の女子高でもこんなことはないだろうと突っ込まずにはいられないほど、クラス全員が茶髪&ミニスカ&ルーズソックスのコギャルたちばかりの「コギャルの世界」とでもいうべき空間が広がっているのだ(ここに90年代映画オタク真っ盛りだった女子高生の私は存在できないのだ!)。
ちなみにどういう演出がされているかというと、「コギャルはとりあえずキラキラしとけ」とでもいわんばかりに、物理的にずっと画面がキラキラしているのである……(女子高→コギャル→元気な女の子たち→キラキラ→光いっぱい当てとけ、という陳腐な映画的表現)。
念のために補足しておくと、私は「コギャル」にムカついているのではない。「コギャル=時代の代表=キラキラ描く」ような安易さに、大根監督のこれまでの作品と同じで、女性を自分と対等な知性をもった人間として扱えない傲慢さにムカつくのだ。
元コギャルを取材したときに「何も考えてなかった」「毎日楽しかったし、世界は私たち中心に回っていた」といわれた大根監督は、「閉塞的な社会への抵抗などといった深読みをした自分はかっこわるい(大意)」と「改心」したらしいが、過去作品を見ているものとしては、元コギャルらの言葉は彼にとって単に都合がよかっただけなのでは? としか思えないのである。
『モテキ』では女をペットのように、『バクマン。』では(男)社会には参加できない添え物のように、『SCOOP!』では処女か否かを上司に賭けられるようなバカ扱いしたうえ、『奥田民生になりたいボーイと出会う男をすべて狂わせるガール』では男が一方的に惚れてるだけなのに、なぜか女が男を振り回す狂人呼ばわりだ(個人的に『恋の渦』はある程度評価しているのだがその理由は長くなるので割愛)。
そして今回は、「女子高生=コギャル」はとりあえずキラキラしとけ」という、若い女をバカにすることここに極まれり的要素が加わる。これは表面上は女子高生を輝かせているかのように勘違いさせる点において、今までよりタチが悪い。
カン監督にあって大根監督に欠けているのは、「公正」さだ。そして大根監督は、ミソジニー(といってしまおう)の裏返しでしかない過剰な女性賛美を持っている。
監督の分身的な存在である探偵役のリリー・フランキーが過去を振りかえりながら「今の女子校生は大人しい。あの頃は女子高生(コギャル)が時代を作っていた」的なセリフを喋るのだが、大根監督の脳内にしか存在しない「女子高生=コギャル」をいくらキラキラさせても、過去を美化した「昔はよかった」という話にしかならず、飲み屋で説教を垂れてくる「おっさん」のアレと同じでただの害悪である。
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