というか、朱里は“獣”なのだと思う。コキ使われて散々な目に遭っている晶に、朱里は「辞めちゃえばいいのに」と言う。朱里だったら辞めているのかもしれない。また、晶が朱里の立場だったら、現彼女に気を遣って元カレの家に居候などできないだろう。“獣”になれないから。
しかし朱里が生まれついての“獣”かといえばそうではないし、別れた元カレの家に4年も居座って引きこもり、新しい仕事を探さないのだって、だらしなくてイヤな奴だからじゃなく臆病心や葛藤からきているだろう。朱里は心を病んで前職を辞めている。京谷はそんな朱里を完全に突き放すことができない。
『けもなれ』であからさまに“獣”として描かれているのは呉羽(菊池凛子)で、直感で生きる野生児とされている。晶は「いいなぁ、どうしたらそうなれるんだろう」とぼやくが、彼女は“獣”になれるのか。いや、そもそも“獣”ってなんだ? それが“人間”よりも良いものなのか? 本能は理性や配慮より大切なのか。結局のところバランス感覚なのだと思うが、『けもなれ』がどのような答えを提示していくのかが気になる。
『けもなれ』はここからが本番?
同じようにこの現実社会には、“獣”になれない人々が大勢生息しているだろう。それゆえ『けもなれ』は大いに共感を呼んで『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)のようにグングン数字を伸ばす話題作になるかと予想されたが、晶のしんどさに我が身を投影してつらくなり、「もう見ていられない」と脱落する視聴者もいるのだから、それほど事態は深刻なのかもしれない。しかも晶は幼少期に父親から虐待を受け、母親はマルチ商法にハマって絶縁中という生い立ちもしんどい。
といっても、制作サイドだって単純に『逃げ恥』の二匹目のドジョウを狙ったわけではないだろう。問題意識があってこのドラマを制作していることは明らか。ただ、野木作品といえば、そこに広がるのは「優しい世界」というイメージがある。『逃げ恥』にしろ『空飛ぶ広報室』や『アンナチュラル』(ともにTBS系)にしろ、ドラマの登場人物なのに信頼を置けるというか、優しく誠実な人々が息をしていたのだ。
働く女やイケメンだって、ステレオタイプな描き方はしていなかった。だから多くの視聴者に愛される作品だったのだと思う。しかしそれもひとつのファンタジーだ。『けもなれ』では、晶を取り巻く登場人物たちの“ウザさ”が目立ち、その点での視聴ストレスは確かにあるだろう。現実には、どうやっても共感できない相手もいるし、いくつかの方向から見てもだいぶ悪人だな、というような人もいる。
ただ、野木脚本のドラマに期待する視聴者は非常に多いはずだ。丁寧に作りこまれていないはずがない、という信頼がそこにある。たとえば『アンナチュラル』では、最初は横暴なパワハラ法医学者のように見えた中堂系(井浦新/44)が、第3話以降、怒涛の好感度上昇をみせ、最終回に入る頃には“中堂ロス”が叫ばれるほど愛されるキャラクターになっていた。
いかに大勢が野木ワールドの面白さにハマるかは、第3話以降も見てみないとわからない。
(ボンゾ)
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