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妄想食堂「『お茶碗のご飯』と向き合えない日、食卓をほつれさせるところから始めてみる」

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(c)飯塚めり

 ひとりのとき、どうしてもご飯を食べる気力が湧かない日がある。お腹が空いていないわけではないのに、食べるのが億劫。何を口に入れたらいいのかもよく分からなくて、とりあえず食卓の体裁を整えよう、まずは白いご飯、と思ってみてもそこでつまずいてしまう。

 食器棚からお茶碗を取り出そうとする。釉薬のぬめっとした光沢と手にこたえる重さにくじけて、すぐに戻す。冷凍庫のドアを開ける。一人分に丸めて固められたご飯の大きさに怯んで、すぐに閉める。キッチンを照らす蛍光灯の光は白くてまばゆい。目が痛くなって消す。今日は色々なものが強く、硬く、重く、大きい。ぴかぴかで、つるっとしている。ひとりきりでは負けてしまいそうだ。

 元気がないと、お茶碗に盛られたご飯が怖くなる。なんだか威圧されている気になるのだ。陶器の重みと存在感。器が縁取る「一人分」の輪郭。「今からこれだけのものを、あなたはひとりの人間として食べなければなりませんよ」と言われているような気持ちになる。できるだろうか。食べる自分を想像するけれど、浮かぶのは挫折のイメージばかりだ。胸がうっと詰まる。

 あるいは「食卓」の最大公約数的なところがあるからかもしれない。「お茶碗のご飯」はそれだけでもう完璧な形をしている。玉のように輝く、ほつれもほころびもない「ごはん」のアイコン。ただの炊いた穀物ではない。その背後におかずとか、お味噌汁とか、一通りのものが控えているような気すらする。すべてが揃った「正しい食卓」の姿が想起されて、どこから手をつけたらいいのか分からなくなる。

 完成されたもの、形式の整ったものを前にすると萎縮してしまう。白いご飯もそうだし、麺類や丼物だってそうだ。ひとかたまりの量と形が明確に決まっているものにプレッシャーを感じるのだ。何かをやり遂げなければならないと思っているときの緊張に似ている。

 だけどそういうとき、ちょっとしたおかずやおつまみだけなら食べられたりする。形があやふやで、輪郭がほつれているから。一人分の量だってそんなにはっきりしない。どこから手をつけてもいいし、どこでやめてもいい。指先で少しずつつまんでいるうちに、いつの間にかお腹が満たされている。

 炊いたお米も、器が整っていなければあまり怖くない。おにぎりとか海苔巻きとかなら不思議と食べられる。作るのが嫌だったらコンビニで買ってもいい。なんだったらテーブルに向かっている必要もなくて、行儀悪くお布団の上で食べたっていいのだ。

 ふだんは忘れがちでも、食事という行為にはたくさんのルールが織り込まれている。目に見えるものも、見えないものも。その規則正しい織り目に指先を差し込んで、少し乱雑にほぐしてみる。ちゃんと自炊しなきゃとか、買ったお惣菜は皿に移さなきゃいけないとか、使い捨ての食器は環境に悪いとか、そういうのだって、気にするほどのことじゃない。

 食べることに緊張を覚えたら、「食卓」を織り上げる糸をほどいて、一本一本たぐり寄せていく。手順も格好も気にしない、休み休みでも、片手間でもいい。そうしていくと、気付いたときには手元に糸の海ができている。それはもやもやして縮れていてみっともなくて、全然整ってもいないし、完璧でもないかもしれない。だけどそれをお腹のあたりに掻き抱いてみると、案外あたたかかったりもするはずだ。

 だから今日のところはこれでしのいで、また元気になったらゆっくり編み直してみればいい。しんどくなったときは何回でもほどいてしまえばいいのだ。きっといつか、ちょうどいいゆるさの編み目が見つかるはずだから。

餅井アンナ

1993年生まれ。ライター。食と性、ジェンダー、生きづらさについての文章を中心に書いています。wezzyでは連載「妄想食堂」などを執筆中。マガジンtb(タバブックス)にて心身の防御力低めな往復書簡連載『へんしん不要』も。食と性のミニコミ『食に淫する』制作。

twitter:@shokuniinsuru

http://shokuniinsuru.tumblr.com/

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