「勘違い野郎」という言葉があります。他人が自分に優しく感じの良い態度を見せてくれると、「あの人、自分に気があるのでは……」と勘違いし暴走してしまう人は、性別や性的指向を問わず、いるようです。
しかしながら、この誰にでも起こりそうな問題が、女にとってとくに困った悩みになってしまうことがあります。少し親切にしただけなのに勘違いした男に言い寄られ、不愉快な目にあった……という話はSNSやゴシップ記事などでよく話題になっていますが、迷惑を被った女のほうが悪いなどと批判されがちです。
これは、発想としては「その気にさせた女が悪い」というもので、性犯罪の被害者非難に通じるものです。誰に起こってもおかしくないのに、女ばかりが不当に悪く言われやすいのです。
この「勘違い男」問題は、実はけっこう昔から文芸に出てくるモチーフで、明るく楽しく振る舞う女は気が多かったり、相手の男を誘惑したりしようとしているものだ……という偏見とも結びついています。勘違いの方向が逆転して、自分の恋人が他人に優しくしているのを勘ぐるということにもなり得ます。
今回の記事では、ウィリアム・シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』、『オセロー』、リチャード・ブリンズリー・シェリダンの『恋敵』を中心に、イギリス演劇における勘違い描写を見ていきたいと思います。
『ウィンザーの陽気な女房たち』における一途なパリピ女子たち
陽気でも夫に律儀な女房たちがいるんだってことを
わたしたちが行動で示して、証拠を見せてあげましょう
よくふざけて笑うからって、不埒なことをするわけじゃない
大人しい輩ほど胸に一物あるもんだって、よく言うでしょ
(ウィリアム・シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』第4幕第2場、99 – 102行目)
これはシェイクスピアの喜劇『ウィンザーの陽気な女房たち』に出てくる「陽気な女房」のひとり、メグ・ペイジの台詞です。このお芝居は、金と体の両方を目当てに近づいてきたサー・ジョン・フォールスタッフからまったく同じ文面の恋文を受け取り、悪巧みに気付いた既婚のメグとその親友アリス・フォードが、フォールスタッフに復讐する、という内容です。
この台詞のメッセージは、陽気で楽しいことが好きな女、つまりパリピ女子は男に浮気者だと勘違いされやすいが、実際はそういうわけではなく一途にひとりの男を愛していることもあるし、世の中にはむしろ隠れ肉食系もたくさんいるので、女の心を見た目の印象で判断してはいけない、ということです。実際、メグとアリスは冗談好きで、親友同士で悪ふざけをするのが生き甲斐のパリピ女子ですが、それぞれの夫にはベタ惚れです。
フォールスタッフは『ヘンリー四世』二部作などに登場する重要人物で、非常に機知に富んでおり、英国舞台史上最も愛されているキャラのひとりです。面白い男なので他作品ではわりとモテるのですが(すごく太っていて初老ですが、男の魅力はそういうことで決まるわけではありません)、『ウィンザーの陽気な女房たち』では色男ぶりはどこへやら、ただの困ったちゃんです。
メグによると、フォールスタッフとは2回くらいしか会ったことがなく、その時もとくに愛想良くはしなかったようです(第2幕第1場21–23行目)。ところがフォールスタッフは、「あの親しみのこもったそぶりをしっかり読み取ってやる。あの小難しい振る舞いの意味だって、ちゃんと英語に訳してやれば『わたしはサー・ジョン・フォールスタッフのものです』って意味だ」(第1幕第3場42–45行目)と、メグのただ感じが良いだけの態度を意味深長に解釈して、自分に気があると思い始めます。フォールスタッフの中には、男に対して明るく感じ良く振る舞う女は恋愛ごっこをしたがっているのだ、という思い込みがあるのです。
『ウィンザーの陽気な女房たち』はエリザベス1世の治世に初演されました。陽気な女が浮気者だと思われたり、ちょっと愛想良くしただけで好意があると勘違いされたりするというのは、賑やかなことが好きだった一方、一度も結婚しなかったエリザベスの宮廷では理解されやすい悩みだったでしょう(Melchiori, pp. 247 – 248)。16世紀末のイングランド宮廷の女性たちと、現代日本の女性たちは、案外似た問題を抱えているのかもしれません。
『オセロー』における大変な勘違い
『ウィンザーの陽気な女房たち』は、メグとアリスが勘違いフォールスタッフをコテンパンにして終わる喜劇です。しかしながら、この少し後に初演された悲劇『オセロー』では「陽気な女は浮気者かもしれない」という偏見が悲劇的な結末につながります。
『オセロー』は、アフリカ出身のムーア人の将軍オセローが、肌の色の違うヴェネツィアの令嬢デズデモーナと駆け落ちするところから始まります。その後、オセローは総督に任命され新婚の夫妻はキプロス島に赴任します。そこで軍の旗手イアーゴーから、デズデモーナが副官キャシオーと浮気をしているという嘘を吹き込まれたオセローは、嫉妬のあまり、妻を殺してしまいます。
ここでイアーゴーが使うのが、「陽気な女は浮気者」ステレオタイプです。デズデモーナは誰にでも感じよく接する女性で、夫の求婚を手伝ったキャシオーに恩義を感じ、イアーゴーの企みで罷免されたキャシオーの復職のため、夫に精一杯働きかけます。デズデモーナは社交的で、夫以外の男たちとも冗談を言い合い、キャシオーはこれに洗練された宮廷人ふうの礼儀で応えます。ところがイアーゴーはこの2人のどうということはない友人関係にわざと性的な意味を見出し、浮気の始まりのように言います(第2幕第1場167–178)。イアーゴーはデズデモーナの人好きのする性格をオセローに勘違いさせようとするのです。
オセローは最初、イアーゴーの讒言を拒絶します。
妻が美しく、健啖家で、人付き合いが良く、
忌憚なく話し、歌や楽器や踊りが上手だと
言っても、私は嫉妬などしないぞ。
徳のあるところでは、こうした特性はさらなる徳となるからだ。
(『オセロー』第3幕第3場186–189行目)
しかしながら、イアーゴーが説得を始めると、妻の「徳」だったはずのものが、どんどん浮気性の特徴のように見えてきます。オセローはフォールスタッフのような意味における勘違い男ではありませんが、女のどうということはない親切や冗談を特定の男への好意や恋愛ごっこへの欲望だと受け取ってしまうあたり、方向性は逆でも同じポイントで勘違いをしていると言えます。
「あの子、自分を好きかも……」と、「オレの彼女はあいつに気がある!」は、同じコインの裏表のような関係です。『ウィンザーの陽気な女房たち』と『オセロー』は、一見違うようですが、実は似た心の動きを扱っていると言えるでしょう。
恋の幻想を徹底的に笑う『恋敵』
こうした「陽気な女は浮気者」ステレオタイプを徹底的に笑ったのが、リチャード・ブリンズリー・シェリダン作の喜劇で1775年に初演された『恋がたき』です。
この芝居の主筋は、ロマンス物語に夢中で障害を乗り越える波乱の恋に憧れる女相続人リディアに惚れた富裕な軍人キャプテン・ジャック・アブソルートが、乙女の夢に付き合ってあげるためわざわざ貧乏兵士ビヴァリーのふりをして求婚する……のですが、ジャックの父サー・アンソニーが勝手に息子とリディアの縁談を進めようとしたため、ジャックは自分自身(ビヴァリー)の恋がたきになってしまうというフザけた話です。
脇筋として、リディアの友人ジュリアとサー・フォークランドの恋物語が綴られます。主筋で恋に幻想を抱くのはリディアのほうですが、脇筋ではフォークランドのほうが変な夢を見ています。
フォークランドはジュリアにぞっこんですが、しばらく離れて暮らしています。たまたま出会ったジュリアの知人エイカーズが、ジュリアは快活で歌も楽器もダンスも上手だとベタ褒めすると、フォークランドは、自分と会えないのにジュリアが楽しく元気にしていると怒り始めます。
フォークランド その凶暴で頑健で無情な健康ってやつには、どことなく不親切なところがないかな?
アブソルート ああ、もちろん、君がいないのに健康だなんて、ジュリアはひどいね! (第2幕第1場)
このやりとりはもちろん笑うところで、フォークランドの極端な考えをからかう場面です。
フォークランドは、女というのは恋人に会えない時は暗い気分で体調不良になるものであり、明るく楽しく振る舞うなどというのは愛のまことがないからだ、という妙な理屈を信じています。フォークランドはこの後ジュリアと会った時に、自分がいない時にも楽しそうにしていたという話を聞いたが、実際はどうなのか……というようなことをチクチク恋人に聞き、怒ったジュリアとけんかをしてしまいます(第3幕第2場)。さらにフォークランドは恋人の愛を試すようなことを続け、ジュリアに愛想を尽かされそうになります。もうここまでくると、他の男にいい顔をしたとかいうようなことではなく、楽しそうにしているだけで嫉妬や疑念がかき立てられるので、相当な重症です。
フォークランドはオセロー同様、快活で感じのいいところに惹かれて女性に求愛したのに、いざおつきあいを始めるとその魅力がかえって気に入らなくなり、友達が多くて皆から好かれる性格の恋人に嫉妬しはじめるのです。この行動は、恋のせいでバカになった不合理な振る舞いとして辛辣に描かれている一方、フォークランド自身はお客さんが嫌いになるほどイヤな感じでは書かれていません。むしろリディアやフォークランドは恋に夢を見すぎの気の毒な若者に見えます。シェリダンの『恋がたき』は、恋に対するロマンティックな幻想を誇張し、それを次々と粉砕していく容赦ない恋愛諷刺劇なのです。
こうした作品群を眺めていると、恋における勘違いや嫉妬が既にいろいろな角度から探求されていることがわかります。この3本の芝居からもし人生の教訓が引き出せるとしたら、女が男に親切にするのは別に好意のメッセージではないかもしれないし、恋のサインを読む時は自省をもって慎重に行わなければならないということでしょう。
あなたに優しくしてくれるあの子はただ皆に優しいだけで別にあなたが好きなわけじゃないかもしれないし、あなたの彼女が親切にしているあの男と彼女の間には何もないかもしれません。陽気で社交的な性格と性行動の間には、とくに関係はないかもしれません。
別に多情だったり、肉食系だったりするのは悪いことではありませんが、ステレオタイプに特定の性格と性行動を結びつけて人に押しつけるのは良くないことです。フォールスタッフやオセローやフォークランドは、わたしたちがそうなってはいけないタイプの恋人なのです。
※シェイクスピアからの引用は全てアーデン版の、シェリダンからの引用は全てThe School for Scandal and other Playsの原文を、参考文献リストにある日本語訳を参考に著者が訳したものです。
William Shakespeare, Othello, The Arden Shakespeare Third Series Revised Edition, ed. E. A. J. Honigmann, intr. Ayanna Thompson, Bloomsbury Arden Shakespeare, 2016 [ウィリアム・シェイクスピア『新訳オセロー』河合祥一郎訳、角川文庫、2018].
William Shakespeare, The Merry Wives of Windsor, The Arden Shakespeare Third Series, ed. Giorgio Melchiori, Bloomsbury Arden Shakespeare, 2017 [ウィリアム・シェイクスピア『ウィンザーの陽気な女房たち』小田島雄志訳、白水社、2001].
Richard Brindley Sheridan, The School for Scandal and other Plays, ed. Michael Cordner, Oxford University Press, 2008 [リチャード・ブリンズリー・シェリダン『恋がたき』竹之内明子訳、日本教育研究センター、1990].