
トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた
「ツイッターの使い方を教えてくれない?」と父に頼まれ、どれどれと話を聞いたときのこと。「櫻井よしこのフォローの仕方がわからない」と言われたので、思わず「知らん」と口走ってしまった。
うちの父は自称保守だ。子どもの私はトランスジェンダーの活動家。父は「Hanada」(飛鳥新社)愛読者であるのに対し、子どもは最新号の「Hanada」で保守論壇に売り出し中の松浦大悟氏に「あいつらにも問題がある」と言われている側の人間のひとりだ。
ハタから見ればギャグである。うちには「新潮45」廃刊の引き金をひいた小川榮太郎の本がある。しかも二冊。10代の頃ジェンダークリニックに父が呼ばれたときは、帰り道になぜか靖国神社に行くことになった。
そんな父はLGBTについては肯定的だ。パートナーを実家に連れてきたときはこちらが口を開く前から「おまえが家に連れてくるなら大切な人なんだろう」と言い、就職祝いにはメンズのかっこいい時計をくれた。私は保守が必ずしもアンチLGBTだとは思わない。
「新潮45」におけるLGBTへのヘイト特集に関して、保守派論客の古谷経衡氏はこう述べる。
“私は世界がひっくり返ってもインパールで四万の将兵を「死なせた」牟田口廉也を好きにならないし、正当化する事はできないが、今回の件も同じだと思う。可哀想とも、仕方がないとも思わない。全てが間違いで、全てが無計画と無責任であった。”
父もまた新潮については「こんなことするなら早く廃刊にしときゃ良かったのに」と言っている。保守であろうとリベラルであろうと、それが世間のおおよその感想ではなかろうか。あるいは稲田朋美氏が「少数者を思いやるのが本当の保守」と強調するのを見ると、保守にもバラツキがあると言うべきか。
今、LGBTをめぐる問題で「杉田氏へのバッシングはリベラルによる対話の拒否」といった構図を打ち出す松浦氏の言論に違和感があるのは、そもそも発端となった杉田水脈氏の発言を批判したのはリベラルではなく、日本に住む圧倒的多数の人々だったことだ。FNNによる8月時点の世論調査によれば、杉田氏の発言について問題があると感じた人は83%にのぼる。自分たちの社会はもっと優しく公平でいろんな人たちに開かれたものであってほしいと大勢の人たちが思っていることは、率直に歓迎して良いことでないだろうか。
この件について、リベラルや保守という軸を引きずること自体がナンセンスではないかと思う今日この頃。「Hanada」を読んだ父親の感想が知りたいような、怖いような気持ちである。