自分の親戚がどうやら「面白い」らしいことは知っていた――『家(チベ)の歴史を書く』(筑摩書房)はそんな書き出しからはじまる。著者の朴沙羅さんは、歴史社会学者で在日コリアン3世だ。多くの島民が虐殺された「済州島四・三事件」。朴さんの父方の親戚はその時、済州島で暮らしていた。
朴さんは、大学の課題をきっかけに、四・三事件を契機に済州島から日本へ渡ってきた親戚たちにインタビューを行っていく。サングラスをかけ強面の誠奎伯父さん、小柄でもマシンガントークを繰り広げる貞姫伯母さん……クセが強い親戚たちに圧倒されながら、聞きとられた「マジカル」で「面白い」個人の歴史とは?
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――『家の歴史を書く』では済州島四・三事件のようなシリアスな内容が語られながらも、伯父さんと伯母さんの強烈なキャラクターも魅力的で、そこに対する朴さんの冷静なツッコミに何度も笑ってしまいました。
朴:面白いですよね(笑)。私の父方の親戚たちは、花見で殴りあったり、葬式で殴りあったり、小さいころから本当に「面白い」人たちだなぁと思っていました。
――インタビューも大変だったのでは?
朴:おひとり3回ずつインタビューをやったのですが、使える部分はちょっとでしたね。みんなマシンガントークですし、しかもインタビュー中に本筋となんの関係もない人の悪口とか、仕事の話とかをし続けるし……。
――では、話をレールに戻しつつ?
朴:いや、私が話を戻せるような勢いの人たちではありません。私は、「ははぁ」「ああ」としか私は相槌が打てませんでした。「話を戻すんですけど……」と切り出しても、「今この話している途中やん」と押し切られて話を続けられて、こりゃあかんわと思いながらぼんやり聞いていたこともあります。
だから本当はえげつない話も、載せちゃいけない話もたくさん聞きました。実際に本に掲載しているのはほんの一部です。
――それでもすごく生き生きしていました。
朴:それならよかったです。
朴沙羅
京都生まれ。2013年、京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。立命館大学国際関係学部准教授を経て2016年より神戸大学大学院国際文化学研究科講師。著書に『外国人をつくりだす』(ナカニシヤ出版)『家の歴史を書く』(筑摩書房)、共著に『最強の社会調査入門』(ナカニシヤ出版)、翻訳に『オーラルヒストリーとは何か』(水声社)
――まず、朴さんのご家族の来歴を簡単に教えてください。
朴:私の祖父母は、まず1930年ごろに韓国の済州島から大阪に移住します。そして戦争が激しくなった1945年6月ごろに、済州島に戻りました。
その後、済州島では「済州島四・三事件」が起きます。朝鮮北部の分離に反対した島民の一部が蜂起し、韓国軍とゲリラ戦を行い、無関係の村人が虐殺されるなど多大な犠牲が出ました。そこで家族は「密航」をして日本に逃げてくることになります。私の父はその後、末っ子として日本で生まれました。
――在日コリアンと言っても、様々な来歴の方がいるんですね。こういった歴史があることを朴さんは知っていたんですか?
朴:知りませんでした。私はなんとなく、1945年までのどこかの時点でみんなは日本にやってきて、大阪に住んで、今に至るのだと思っていました。ですが高校2年生の時に次女の貞姫伯母さんが、「韓国に帰った時は船が沈んで大変だった」という話をしていて驚いたんです。どうやら一度韓国に帰り、また日本に戻ってきたらしい。いったいなぜ?
ずっとこの話を聞いてみたいなと思っていたのですが、なんとなくそのままになっていました。でも大学生のときに授業で「誰でもいいから生活史を聞き取ってくるように」という課題を出されて、伯父さんと伯母さんたちにインタビューをすることになったんです。
もしかしたら、卒論に使えるのではないか……と甘い考えでインタビューをはじめたのですが、話としては面白くても、これをどうやって論文の形にしていいかわかりませんでした。
そこで四・三事件の証言として扱おうと思ったのですが、それも難しかった。親戚たちの中には四・三事件についてはっきり覚えている人もいましたが、貞姫伯母さんにはその記憶がないですし、四女の俊子伯母さんは事件よりも家族の暴力の方が恐かったと語りました。当たり前なんですけど、四・三事件を中心に彼らが生きているわけではないんです。何かを体験していたとしても、それが、「四・三事件」という歴史的な事件として語られるわけでもない。どう書いていいかわからず、ずっとお蔵入りになっている状態でした。
ただ大学院に進むことを決めた時、三男の朴誠奎伯父さんに「博士になってどないすんねん」と聞かれて、つい「家(チベ)の歴史を書きます」と言ってしまった。
――啖呵を切ってしまったんですね。
朴:そうなんです。伯父さんは「そんなん誰も読まへんわ」と言って一万円くれました。私は博士になったのですが、それでもどうやって論文で家の歴史を書いていいのか、わからないままでした。
そんな中、数年前に『atプラス』(太田出版)の「生活史」特集に寄稿したのをきっかけに編集の柴山浩紀さんと知り合いました。柴山さんに親戚の話をしたら、とても面白がってくれて、そして論文とは違った形で「家の歴史」が世に出ることになったんです。
――親戚の方は本を読まれたんですか?
朴:恐くて見せられないです……。あと、伯父さんたちはもう亡くなっていて、親戚の集まりも昔ほどやらないこともあって、まだ見せていません。ちなみに本を出してから、伯母さんから叱られる夢を見ました。
今でも後悔していることがあるんです。インタビューのとき、三男の誠奎伯父さんにファミレスに連れて行ってもらって、「なんでも好きなもの食えや」と言われたんです。もう20歳超えているのにまだ子ども扱いなんですよ。その時、私は変に遠慮しちゃって、ドリンクバーの紅茶しか頼まなかった。伯父さんも本を書く前に亡くなりました。あの時、あんみつでもパフェでも、なんでも頼めばよかったと思っています。
――その三男の誠奎伯父さんがナット工に就職する話の際、朴さんが「就職差別はなかったか?」と質問して、後悔するシーンが印象的でした。
朴:卒論で使えるかなぁという気持ちで差別体験はないか聞いたのですが、伯父さんはきょとんとした顔をしました。その時「しまった、バカなこと聞いたな」って思ったんです。
そら特殊な技能の、例えば技術持ってるとか、商社や銀行員とか、そこらは難しいよ。頭いる職業には、まあ息もせんし、相手も面接しても使こうてくれへんし。
(『家の歴史を書く』第四章 親族の中心―朴誠奎伯父さん より引用)
客観的にみると就職差別ですが、伯父さんにとって差別としては認識されていない。高校中退の朝鮮人が、日本の企業で就職できるはずがない。それが伯父さんにとっての常識でした。伯父さんが差別だと思わず、私が差別だと思ったのは、私と伯父さんとの間で「差別」の前提が違うからです。
――前提が違うとはどういうことでしょうか?
朴:まず在日コリアンの一世、二世、三世は、それぞれかなり生活状況が変わっていきました。一世だった伯父さんや、私の祖父母はバラック小屋に住んでいて、食べるものもなく、病院にもいけず、年金も保険もなく、毎日の仕事もない環境でした。仮に義務教育や高校に行けるけたとしても、大学に行ける人は多くない。結婚も在日コリアン同士のお見合いや紹介によるものが多いです。
それが、日本社会の変化の影響もあって、次第に大学に行けるようになって、専門職につけたり、会社勤めできたりするようになる。それぞれの世代で「当たり前」が全然違うんです。もちろん、一世のスタート地点から経済的に成功された方や、大学に入学された方もおられるので一概には言えませんけれども。
伯父さんは一世~二世の世代、私は三世~四世の世代です。差別されるのが当たり前の環境にいた伯父さんと、ほぼ日本人と同じ環境で育って大学に行けるのが当たり前の私。私と伯父さんとでは、スタート地点が違っていました。それは、文字通り伯父さんたちや伯母さんたちが子供の頃から仕事に出されて作ってきたお金で、末っ子で溺愛された私の父だけが勉強する環境を与えてもらって、大学を出て、日本人の女性と結婚して、中学の教員になったからです。
実際に、一世、二世、三世で語られる差別の問題も全く違っています。世代を経ることによって、あるいは言葉を学ぶことによって、なぜこんなに貧しいのか、なぜ同じ人間であるはずなのに差別されるのかという言語化が可能になる。日立就職差別事件や、指紋押捺拒否運動がおこった1970年代から80年代は、二世が成人した時期に当たります。
三世、四世になると日常の中にある、気づかれにくい小さな差別が問題化されます。結婚する時に反対される、就職やアルバイトの時に日本名にするように求められる、ちょっとした会話の中で「日本人と一緒だよね」「なんで日本国籍取っていないの」などと言われるような差別の形に変わっています。
――次女の貞姫伯母さんが大村収容所に入ったときに「とてもよかった」という話をしたのも印象的でした。大村収容所はストライキが起こるほど劣悪な環境だったんですよね。おばさんの証言と実際の資料に書かれていることとが違っている。
朴:そうです。家族に遅れて密航した伯母さんは、対馬の山の中で隠れている最中に見つかり、今の大村入国管理センターの前進である大村収容所に収容されます。そしてその時の体験を「めっちゃええ」と語る。大村収容所の歴史はなんとなく知っていたので、「ええーっ!」と驚きました。
刑務所いうても、めっちゃええねん。みんなこんな畳の上でな、もう座って遊ぶしな、何もそんな、どっか閉じ込められるとかそんなん違うねん。お腹いっぱいご飯を食べられるしな、何も苦労はないんやけど、でも子どもやんか。もう早よ親のところに帰りたい、こればっかりや。
(同書。 第3章 めっちゃええ場所―朴貞姫伯母さん より引用)
インタビュー後に図書館で調べると、やはりこの時は待遇改善を求めるストライキが起こっている最中でした。大村収容所で反対運動が起きるほど劣悪な環境だったことは確かです。人間には人間として扱われる権利があるという発想があって、それが侵害されたときには抗議して行動するものだと考えるのなら、耐えがたい環境だったのでしょう。
でもなぜ伯母さんは「めっちゃええ」と思ったのか。それはつまり、大村収容所よりも済州島の方が過酷だったということ。そのあと、同じように済州島出身で四・三事件を体験し、大村収容所に収容された人からも「あそこは冬は温かくて夏は涼しかった」「何もしなくてもご飯が出てくる」と聞きました。
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――伯父さんと伯母さんの話のそこだけを切り取ってしまうと、「差別はなかった」「大村収容所は悪くなかった」という話になっていく可能性もありますよね。
朴:そこは本を出す時に懸念しました。誠奎伯父さんも人生で一番つらかった経験として「両親のケンカ」を挙げていますし、伯母さんは大村収容所を「めっちゃええ」場所と言う。そこだけ取り出せば「ほら、差別なんてなかったんだ」「大村収容所は悪くなかったんだ」という文脈で回収される危険性もあります。
でもだからと言って、その発言を出せないのはおかしい。言葉尻をとらえるのではなく、発言の意味を考えないといけません。
イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグはインタビューの中で、こう言っています。「ぜひとも正しい意味をつかまえたい。正しい意味だなんて概念は、今や多くの人々にとって一種の異端だということは知っています」(E.P.トムスン他『歴史家たち』名古屋大学出版会, p.122)。当時は歴史学でポストモダンが流行していた時期で、歴史はあくまでその歴史家が考えた一つの物語でしかないという考えが流行していました。ギンズブルグのお父さんはユダヤ系で、レジスタンス運動をしたために殺されました。ギンズブルグが「安手の懐疑主義には全く反対なんです」(同上)と言っている背景には、そのような家族の来歴と彼自身の歴史学者としての確信があるでしょう。
いわゆる実証主義的歴史学の租と言われるレオポルト・フォン・ランケは、歴史学とは「それは実際にはどうだったのかwie es eigentlish gewesen」を明らかにする学問だと言っています。これは、歴史学からフィクションの要素と、過去を裁いたり未来を予測したりする発想の両方を排除するマニフェストになりました。しかしそれだけではありません。いま私たちが過去の何かを調べようとして資料を見出したときに、それを作った人々がかつて当然に知りえていたことや考えていたことも込みで理解しないと「それが実際にはどうだったのか」を知ることはできないでしょう。そして、ギンズブルグによれば、それを知ることは可能なはずです。見出される資料は、ランケが主な対象とした公文書だけではない。普通のおじさん、おばさんのおしゃべりだって、資料になりえます。当然、昔のことを回想すると、思い込みやズレが生まれます。でもその思い込みやズレも、分析して意味を持つ限りにおいて、その話された言葉の意味をちゃんと理解したい。
大村収容所を「めっちゃええ」と思えるのはその前後に何を体験したからなのか、「就職差別なんてない」と言えるのはなぜなのか。背景を丁寧に見ていかないと意味は分かりません。でも、わかるはずなのです。そのわかった内容を修正しなければならない場合があるとしても。
四女の俊子伯母さんも、四・三事件よりも、貧困よりも、差別よりも、「字が読めないのが辛い」と言っています。俊子伯母さんは済州島では授業料が払えないので学校に通えず、日本に渡ってきた時には十歳だったので、授業に全然ついていけず、字が読めないまま大人になりました。その後、働きながら日本の夜間学校に通います。
ずうっとつらい。字がわからんがどんだけつらいか。人に言われへん。ほんでもう、そんな暮らししてきたことつらいより、その字知らんのんつらさは、なんとも言われん。うん、だからすごくつらいから、もう夜中に起きてな、みんな寝てるのに書いたりな。
(同書 第5章 わからへんこと―朴俊子伯母さん より引用)
実は在日一世の識字学校の方たちも同じことを言っていました。彼女たちは今でいうと、DVやパワハラを受けたり、働きすぎて身体を壊したり、悲惨な状況をたくさんくぐってきた。それでも「字が書けないのがつらい」「目が開いているのに、何も見えていないのと一緒」だと言うんです。
伯父さんや伯母さんの語ったことは個人的な歴史ですが、在日一世~二世が経験してきたことでもあると思います。
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――この本をきっかけに、家族の話を聞くことが流行るといいなと思いました。
朴:そうそう、流行ってほしいですね。一世代、二世代前の話でも、嘘みたいな話がいっぱいあるんですよ。
実は私は小さいころから、母方の祖母に「普通の人の話を聞け、記録を取れ、ノートを取れ」と言われてきました。母方の祖母は、静岡に住んでいて、栄養士養成課程の教員として大学で教えていたのですが、空いた時間にあちこち車で行って、地方の普通の人たちが食べているものや調味料などを聞き取りして、フィールドノートをつくっていたんです。
――英才教育ですね。
朴:いま考えてみるとそうですね(笑)。それに、私はお年寄りから昔の話を聞くのが好きな子どもでした。一世代前でも驚くような話がけっこう出てきます。母は静岡生まれなんですが、子どものころ「まだ道が舗装されていなくて、ロバがそのへんにいた」という話が出てくる。子供の頃はそれを聞いて羨ましく思っていました。京都に「ロバのパン屋」という移動パン屋さんがあるのですが、本当にロバがその辺にいたんだ!と
母曰く、曽祖母はヤギの乳を子どもに飲ませるのが主流で、牛乳を飲ませるのは気色悪いと思っていたそうです。栄養士の祖母と、曾祖母の間で、子供だった母にヤギの乳を飲ませるか、牛の乳を飲ませるかの嫁姑バトルが行われていたそうです。よく分からない二択ですよね(笑)。
――牛VSヤギ。面白いですね。
朴:みんなそれぞれ、家の歴史は面白いと思うんです。あなたにとって面白いだけでなく、他の人にとっても面白いし、研究職の人にとっても面白いことが、個々人の歴史の中に絶対にある。
世代が違う人や、体験が違う人に話を聞くのは、話をしてくれる人を通したフィールドワークのようなものだと思います。身近にいる、過去を積み重ねて今に生きている人は、タイムマシンに似ています。そして昔の人は思ったよりめちゃくちゃな人生を生きています。昔の人がめちゃくちゃやった過去が本当にあって、それがいまに続いているとわかれば、今の社会は何かに運命づけられてこうなったわけではない、今の形でなくてもいいんだと思えます。
――後世の人からみると、今の私たちも「めちゃくちゃ」なのかもしれませんね。
朴:そうそう。私は子どもの頃にファンタジーが好きだったのですが、でも今は普通に生きている人のマジカルな人生に魅了されています。でも本人はマジカルだとも何とも思っていないので、普通に話してくれる。それはもちろん、昔の人は言ってみれば「お行儀」が悪いとか、今はテクノロジーが進歩したとか、人権意識が向上したとか、そういう理由で昔の世界を知っている人たちの話に驚かされることもあります。でも、それだけではないんです。私たちとは知識も違えば、世界のものの見方が違う。お互い理解し合えて会話しているのにすごいギャップがある。そのマジカルな魅力が誰の人生にもあるんだろうと思います。
(聞き手・構成/山本ぽてと)