政治・社会

「地下鉄サリン事件」へと、オウム真理教を変質させた“何か”の存在

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法社会学者・河合幹雄の「法“痴”国家ニッポン」

第2回 1995年3月「地下鉄サリン事件」へと、オウム真理教を変質させた“何か”の存在

 あまたの疑問を社会に投げかけ、暗い影を落とし続けたオウム事件。ひとつの区切りとなるはずだった2018年7月の元教団幹部13人に対する死刑執行についても、多くの国民が、「なぜこのタイミングで?」という釈然としない思いを抱かずにいられなかったようです。それに応える形で筆を執ったのが、本連載の前回分「オウム死刑囚“大量執行”が意味するものと被害者遺族の高齢化」でした。

 ただ、そうした割り切れなさという意味では、さらに重く、人々の心に共通してのしかかっている思いがあるように思います。それは、これでオウム事件は多くの謎を残したまま闇に葬られてしまった、というモヤモヤとした感情です。

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地下鉄サリン事件後の1998年に公開され多くの議論を呼んだ、森達也監督による傑作ドキュメンタリー映画『A』のDVD版ジャケット(販売:マグザム)

 まさしくそういう国民の気分を代弁したのが、1998年にオウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画『A』を公開した映画監督の森達也氏でしょう。「BuzzFeed News」の取材に対し、「麻原が動機を語っていない状況での執行は歴史に残る過ち」と断じています。一般のみならず識者にも、このコメントと同様に、麻原が公判で何も語らなかったことで、結局のところ事件の真相は解明されなかった、と受け止めている人は少なくない印象です。

 しかしそうした見解については、ジャーナリストの江川紹子氏の反論が正鵠を射ていると思います。

「彼(麻原、著者註)は裁判中に精神を病み、心神喪失状態になって、何も語れなかったのだとして、執行は不当と訴える人たちもいる。そういう人たちは、裁判をちゃんと見ていないし、裁判に関する記録や報道も丹念に読んでいないのだろう。(中略)その裁判を通し、事件の動機も含め、刑事事件としての真相は概ね明らかになっていると言える」(「Yahoo!ニュース」2018年7月8日付)

 1980年代末、社会の注目を集める以前からオウム真理教を追い続けた同氏ならではの説得力と重みのある言葉です。刑事司法の本質とは、事件の“真相”をつまびらかにすることではなく、物証や証言から客観的事実を認定して裁くことにあります。幸い、オウム事件の裁判記録は、通常50年で破棄されるところ、「刑事参考記録」として永久保存されることが、刑執行後の2018年8月3日に発表されています。それらをつぶさに読めば、少なくとも刑事司法上、オウム事件の全容はほぼ解明されたと理解できるはずです。

宗教が社会的に「宗教」たりうるために必要な要素

 ただ、それでもあえて、「オウム事件は未解明だ」とする立場にくみするなら――。私はこのような疑念を抱かずにはいられないのです。すなわち、「ほかにも“誰か”がいたのではないか……?」と。

 オウム真理教の事件前後の状況、報道、裁判資料その他のさまざまな状況証拠を踏まえて合理的に考えてみる。すると、こうした疑念が生じる。教祖の麻原とは別の意味で、オウム真理教を未曾有のテロへと走らせる上で大きな役割を果たした人物あるいは集団が存在していたのではないか? しかし彼ないし彼らは、その名すら明らかにならないまま逃げおおせてしまったのでは? 人によっては“トンデモ説”とも取りかねないようなこうした疑念が生じ得る“余地”が、オウム真理教の起こした一連の事件には、確かにあるのです。

 宗教というものが成立するとき、何が必要か。まずは、教祖や教主などの「神がかる者」である。では、ただその元へ信者が集まってくれば“宗教”は“宗教”たり得るのか。そうではない。宗教が、少なくとも人の心の中にだけではなく、ある規模以上の組織として、つまりは社会的な意味で宗教として成立し得るには、もうひとつ、欠くべからざる“要素”がある。それは、「束ねる者」。すなわち、組織をつくって運営していく人間の存在です。

 教義や経典を整える。布教して信者を獲得する。信者の名を管理する。教祖の下、そこへ連なる階級を定める。布施を集める。そうして、信仰対象としての社を建てる。

 個人や集団による信仰が、社会的宗教へと発展していく過程においては、そうした実務的な、かつ膨大な作業を担う人材は欠かせない。古くはキリスト教における使徒ペテロやパウロ。日本の新宗教でいえば、天理教教祖中山みきの死後に本席(神の声を聞く役割を担う指導者)となった飯降伊蔵や、金光教の教義解説書を執筆した白神新一郎。古今東西どの教団も、彼らなくして今日の教勢はあり得なかった。

 そうした、いまでは広く認められた宗教とオウム真理教とを同じ土俵で比較するのは間違っている? もちろん、オウム真理教の起こした一連の事件を考えるとき、そうした一般宗教とオウム真理教とを同列に語ることに強い抵抗が生じるのは当然です。

 しかし、少なくとも組織としてのオウム真理教は、1984年の「オウムの会」立ち上げから10年に満たない間に、国内だけで信者数1万人以上、総資産1000億円、省庁制と呼ばれる完璧な上意下達の内部組織をつくり上げるに至ります。教団としてそれほど巨大な“成功”を収めたにもかかわらず、元幹部の中には、その実現に欠かせないと思われる「束ねる者」、すなわち教団運営のスペシャリストが見当たらない。これは何を意味するのか。

 しばしば指摘されるように、確かにオウム真理教の元幹部には“優秀”な人材が揃っていました。筑波大学大学院で物理化学を専攻し、サリンやVXガスを製造した土谷正実。オウム真理教による7件の殺人事件すべてにかかわった新実智光。彼らに限らず元幹部らは、道を誤ることさえなければ、それぞれの分野で社会に大きく貢献したかもしれない人物ばかりです。しかし、「束ねる者」としては? 彼らの顔を並べてみても、その面に秀でた者はどうしても見当らないのです。

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