
『どもる体』(医学書院)著者・伊藤亜紗さん
「いのち」と言おうとすると「いいいいのち」とどもってしまう。でも歌うとどもらない?――吃音は、なぞの多い障害だ。原因不明で、治療法の有無さえも分かっていないし、症状が出るシチュエーションも人それぞれだ。
そんな吃音と付き合う当事者にインタビューを重ね、吃音が生まれる体の謎に迫った『どもる体』(医学書院)が話題を集めている。著者の伊藤亜紗さんに、「どもる」とはどのような状態なのか、そして共にある「どもられる体」についてお話をうかがった。
「対処法」が「症状」に
――吃音というのはどのような状態なのですか。
伊藤:体のコントロールが外れた状態です。「思ったらすぐ言葉が出る」話者とは違う方法で、体から言葉を発しています。吃音の症状は大きく分けて「連発」「難発」「言い換え」の三段階があります。
「連発」は言葉を発するときに、声帯の調節が間に合わなくなり、アイドリングのようになる状態です。たとえば「いのち」と言おうとして「いいいいのち」となってしまう。小さい子どもの吃音のほとんどが連発だと言われます。
その連発の状態について、人から指摘されたりして自覚するようになると、自分の喋りをチェックする門番を飼いはじめます。その門番が「いいいいのち」となるのを避けるために「いのち」の言葉をブロックする。そうすると声も出ず、呼吸もできない状態になります。これが「難発」です。だいたい小学校に上がるころには、連発を抱えつつ難発になる人が多いようです。
今度はそれを防ごうとして「言い換え」をするようになります。「こっちの門は閉じているから、別口で行こう」と思うわけです。「いのち」が言えなければ「生命(せいめい)」と言い換えてみる。あるいは文章で言い換える、外国語で言い換えるなど、人によってさまざまなやり方があります。ですが、言い換えを行うと、本当に言いたかった言葉とは違うので、本人はズレを感じます。
このように、連発→難発→言い換えと、吃音の症状は進化していきます。連発が出ないように難発になり、難発を防ぐために言い換えをする。症状への「対処法」が、同時に「症状」になってしまうのです。興味深いことに、学校で習ったわけではないのに、みんなが同じ順で対処法を重ねています。
――「どもる」原因はわかっているのでしょうか。
伊藤:原因は不明です。家庭環境のプレッシャーが原因だと言われていた時期もありましたが、現在は否定されています。遺伝なのか、脳の機能障害なのか、環境的な要因なのか、その解明にはいたっていない段階です。
――緊張するような場面で吃音が出やすいイメージがあります。
伊藤:シチュエーションに影響されることは事実ですが、どもる原因は必ずしも緊張ではありません。身近な人とリラックスしているときの方がどもる人もいます。症状のでやすいシチュエーションは人それぞれです。
ただ吃音の場合は、症状が表現でもある分、周囲に勘違いされやすいかもしれません。例えば、上司としゃべっているときに吃音が出やすかったとしたら、「上司のことが嫌いなんじゃないか」と、本人の意図しない形で解釈されてしまいがちです。ですが、必ずしも心理的な状況と関係があるわけではありません。
『どもる体』は不安にさせる本?
―― 歌っている時はどもらないんですよね。不思議だなぁと思いました。田中角栄は吃音を克服するために浪花節を習っていたとか。
伊藤:リズムにノったり演技をしているとどもらないと、多くの当事者は言います。100%自分発信で動こうとすると躓くけれど、リズムや演技といったパターンに依存しながら「ノる」とうまくいくのです。
でもそこには「乗っ取られる」可能性も潜んでいます。うまくいく方法だったのに、演技している人格や、特定の喋り方に乗っ取られてしまうのです。吃音の当事者の多くが「ノる/乗っ取られる」の間を揺れ動いています。
――「ノる/乗っ取られる」という言い方は、『どもる体』から生まれた表現ですよね。先日行われた貴戸理恵さんとのトークイベントで、「(本では)当事者団体の言葉をあえて使わなかった」とおっしゃっていたのが印象的でした。伊藤さんが自分で一から言葉をつくったのはなぜだったのでしょうか。
伊藤:当事者団体の中でつくられた言葉はすごく大事です。でもこの本ではバージンな言葉を探したいと思いました。吃音を語るための言語を増やし、今までとは別の吃音の姿が見えたらいいなと。
どうしても当事者が集まる会だと、最終的には明るく終わりたいので、「吃音っていいよね」とか「吃音だからこその世界がある」というようなストーリーになりがちです。でも私はストーリーを語りたいわけでも、吃音の価値づけをしたいわけでもない。体の中に起こっている現象をニュートラルに観察したかった。価値づけする手前の現象を言葉にしてほしかったので、当事者団体に入っていない方にも多く話を聞きました。
――そこから「ノる/乗っ取られる」という表現がうまれてきたのですね。
伊藤:これまで、吃音の世界では当事者と当事者でない人との線引きがはっきりとしていました。でも本来は吃音の線引きは曖昧なものです。コミュニケーションを取るのも大変な方もいれば、シチュエーションによってたまに言葉が出にくい人もいる。症状の出る状況も、当事者が症状を気にする度合いもそれぞれで、すごく幅広いのです。『どもる体』では境界をなるべく曖昧にしたいと思っていました。
吃音は言葉が出にくいだけの現象にみえますが、中では複雑なことが起こっていて、外にはそこが共有されていませんでした。でも同じ体を持っているものどうしなのだから、似た何かはあるはずなのです。全員の中に「体がどもってしまう」可能性はあって、全開になっているか、いないかの差だと思っています。
実際に「自分も吃音かもしれない!」と気づいたという感想をいくつかいただきました。吃音じゃないと思っていた人が、自分の中に吃音の可能性を探し、発見しながら読んでくださったのが嬉しかったです。『どもる体』はそういう意味で「人を不安にさせる本」かもしれません。
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