安田純平氏バッシングに見る「悪いとこどり」の日本型「自己責任」論の現在

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写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ

10月23日、シリアで3年間拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が解放された。その直後、安田氏の拘束が判明したときからネットで根強かった、「自己責任論」を理由とした安田氏への批判が溢れかえるようになる。こうした批判は、2004年のイラク日本人人質事件でも見られたものだ。このときも、日本人を誘拐し人質として拘束した武装勢力から提示された自衛隊の撤退という解放条件に対し、一部のメディアが自己責任論を展開し被害者をバッシングしていたのだ。

立命館大学の松尾匡教授は著書『自由のジレンマを解く』(PHP研究所)の中で、日本型「自己責任」論は「悪いとこどり」をしていると指摘する。イラク日本人人質事件から14年経ったいまでも起こる「自己責任論」について、改めて日本型「自己責任」論の問題点を探りたい。

固定的社会と流動的社会での責任概念の違い

 拙著『自由のジレンマを解く』(PHP研究所)で、2004年のイラク日本人人質事件のときに蔓延した「自己責任論」について書いた(元原稿はこちら)。その論旨は次のようなものである。

 「責任」には二種類がある。

 一つは「自己決定の裏の責任」。自分の決定の結果を引き受け、もし他人に迷惑をかけたならばそれを補償することである。もう一つは「集団のメンバーとしての責任」であり、集団の中であらかじめ決まっている役割を果たすことである。前者は不確実性の高い流動的開放的社会に対応し、後者は人為による変化のない固定的社会に対応する。

 流動的開放的社会では、各自はリスクのあることを様々に試すことが奨励される。リスクのある行動をとった結果、当たったやり方が普及し、はずれたやり方が教訓となることで、人々の厚生がより高い社会が実現されていく。大切なことは、はずれたときに起きた損害を決定者が引き受けなければならない、ということだ。これが本来の意味の「自己責任」ということである。

 ここには、道徳的刑事的「悪」を責める意味合いは、本来はない。補償はあくまで民事である。

 これは新自由主義者が社会の落伍者を突き放す冷たい言葉でもある。しかし本来そこには、例えば働かない選択をしたことによる不利益を自分で引き受ける人への尊敬の意味合いこそあれ、働かない選択への道徳的非難の意味合いはない。むしろ、もともとこの自己責任論の持つ合理的機能が、リスクのある選択を人々にさせてその便益を広めることにあるのならば、リスクのある選択をすること自体は道徳的に奨励されなければならないはずだ。

 そう考えると、そうした試みが萎縮しないようにセーフティネットを厚くすることは、この本来の自己責任論の機能と矛盾することではない。また、影響力の強い決定は、責任を確定しきれない損害を人々にもたらす可能性を避けられない以上、その潜在的補償の意味で、公的な課税による社会保障などが行われることは、この本来の自己責任論にかなったことだと筆者は考える。だから、新自由主義的ではない、手厚い社会福祉を正当化する自己責任論もあり得る。

 それに対して、固定的社会では、あらかじめ決まった役割を果たすことが「責任」であって、それを外すような、リスクのある行動をとることは、道徳的に責められるべきこととみなされる。刑事罰を受けるべき「悪」と地続きのものと理解されているのである。その代わり、刑事罰として死刑や追放になるような極端な悪以外では、最後までめんどうはみることが集団の責務となる。人為の及ばぬ不運に見舞われてもリスクにさらされることはないと期待できてこそ、与えられた役割を果たして集団に貢献しようと思うからである。

「集団のメンバーとしての責任」から解釈された「自己責任」

 旧来の日本社会は、会社が正社員とその家族にとって共同体として機能した。系列などの企業同士の集団も強固だった。血縁や地域の共同体も機能していた。このような中では、もっぱら「集団のメンバーとしての責任」が責任概念であったし、それを大きく外さない限り、めったにクビにもならず、野垂れ死することもなく、集団がめんどうをみてくれることが期待できた。つまりかつての日本は、どちらかといえば固定的社会の中にあったわけだ。

 しかし、新自由主義改革が始まり、とりわけて小泉改革が吹き荒れて以降、これらの固定的な人間関係は崩されて、グローバル市場の中で、不確実性の高い流動的開放的社会への移行が強制された。そしてそれに合わせて自己責任論が隆盛することになった。

 固定的社会から流動的開放的社会になったのだから、自己責任論が隆盛することは一見整合的なことのように思われるかもしれない。しかし日本で実際に起ったことは、責任概念の内実が社会の現実に合わせて「自己決定の裏の責任」に変わったわけではなかった。依然「集団のメンバーとしての責任」のまま、集団が個々人のめんどうをみなくなったことを正当化する言葉として、「自己責任」が理解されたような気がする。

 すなわち、集団の中で決められた役割を果たさない者を、集団に迷惑をかけた救済に値しない悪として道徳的に責めた上で、さらにもはや集団のメンバーとしてめんどうをみることもない原理として理解されたのである。

 2004年のイラク日本人人質事件のときに吹き荒れたバッシングの言う「自己責任」とは、まさにこのようなものだった。

 そこで見られたバッシングのメンタリティは、日本共同体の中で、リスクのない決められた役割を果たしていればいいものを、わざわざ不確実性の渦巻く集団外に出ていって余計なことをした者を、道徳的悪として責めるものだっただろう。それは、固定的社会での「集団のメンバーとしての責任」の発想そのままである。しかしもしそうであれば、政府は国家共同体のメンバーを、道徳的に非難しつつも、救出保護する責任を果たさなければならなかったはずである。それは、巨額の身代金を払うことだったかもしれないし、自衛隊を派遣して実力で解放することだったかもしれない。

 ところがバッシング側は元人質を、共同体に迷惑をかけた悪として道徳的に非難しておきながら、「自己責任」と言うことによって、共同体による保護の責任をも否定したのである。「自己責任」の「悪いとこどり」をしてしまったのだ。

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安田純平氏バッシングに見る「悪いとこどり」の日本型「自己責任」論の現在の画像2 ウェジー 2018.10.18

自己責任論なら道徳的に褒めるはずなのに

 本来、自己責任という言葉は、逆に元人質たちを擁護する側が口にするべき言葉であった。もちろん、「自己決定の裏の責任」という、言葉の正しい意味で使われるならばの話である。

 流動的開放的な近代の社会原理に則るならば、イラクのストリートチルドレンの支援など、人道のために自らの命をリスクにさらしてまでする元人質たちの自己犠牲的行為は、褒められこそすれ、非難される筋合いは何もない。しかしこの立場に立てば、自国民だからと言って政府が特別に救出のために大事をかける義務もまたない。お上に言われたわけでない自分の判断で、自己責任で自らリスクを背負った行動だからこそ、褒められるべきなのだから。

 実際、自己責任体制の本場アメリカをはじめとする欧米の圧倒的論調は、元人質の三人を賞賛し、日本でのバッシングを「異様」と批判するものだった。最近でも、ウェブ雑誌LITERAの10月25日の記事でまとめられているので、ご覧いただきたい。

 だから本来この立場からすると、政府は自国民である人質を救出するための義務を果たせと主張することは矛盾だということになる。

 イラク人質事件のときの論調が奇妙だったのは、本来自己責任論を否定する立場のはずのバッシング派が「自己責任」を語ったこともさることながら、本来自己責任論に立つべきはずの擁護派が、それを否定して政府の救出義務を主張していたことだった。自国民だから政府は救出の義務があるという論理からは、ならば自衛隊を派兵しようという結論が容易に導かれる。それは本来多くの擁護派の人たちの望んでいたことではなかろう。身代金を払うわけでもなく、自衛隊を派兵するわけでもなく、ただ情報収集に努めて解放を働きかけるくらいのことは、別に国民同胞原理を持ち出さなくても、公正平和な国際秩序のための、関係国としての誠実義務で十分に根拠づけられる。

「悪いとこどり」はひどくなっている

 さてそれから14年が過ぎ、今日の多くの日本人の目にも当時のバッシングは異様に映るだろうと思っていたところ、あにはからんや、安田純平さんの解放を契機に、またも自己責任論を使ったバッシングが沸き起こり、世の中何も進んでいなかったのだと思い知ったところである。

 このあたりの情報については、最近多忙すぎて筆者自身はフォローしていないのだが、いっしょに「ひとびとの経済政策研究会」の共同代表をしている西郷甲矢人さん(長浜バイオ大学)が話してくれたのを聞いて、評価も含めて一致したので記しておこう。

 バッシング側の論調については、事態は深刻化していると言えるだろう。というのは、前回は、左派、リベラル派の側から政府に対して人質の救出に尽力するように要求する大きな運動があったので、それに対するリアクションとして「自己責任」が出てきたところがあった。

 しかし今回は、そのような運動はほとんどなかった。政府が解放のために特別何か動いていたという兆候もなかった。いやおそらく何もしていないだろう。にもかかわらず「自己責任論」がバッシング側の論理として言われたのである。自己責任なら、ひどい目にあうことによってすでに自ら引き受けているのであって、その態度は賞賛の根拠になりこそすれバッシングの根拠にはならないはずである。共同体内部のリスクのない持ち場に人を縛り付ける道徳感情は以前にもまして強まっているのに、その共同体がメンバーのめんどうを見る必要はないという、集団主義と個人主義の「悪いとこどり」がますます露骨になっているのである。

 他方、擁護側については、自衛隊の派兵に道を開きかねない前回の誤りは、今回はそれほど目立たなかったと言える。擁護の論理はもっぱら、戦場ジャーナリズムというものがいかに世の中にとって必要なものかを訴えるものだった。この点については、世の中少しは進歩したと言えるだろう。

松尾匡(まつお・ただす)
1964年石川県生まれ。博士(経済学, 神戸大学)。1992年から久留米大学教員。2008年から現職。

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