「LGBTの授業をなくす」にはどうしたらいいか

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トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 もし友達がLGBTだったらあなたはどうしますか、という担任の教師が作成したワークシートに高校生たちは「別に……」と書いていた。先日呼ばれた女子校の話である。

 この連続授業は、はじめは担任がやり、その次に私がゲスト講師として呼ばれる予定となっていた。「前回の授業の感想です」と先方から送られてきた感想には「LGBTなんて特別に名前をつけて授業をすることで、かえってその人たちが浮くんじゃないか」なんてクリティカルな意見もあって、どれも居眠りしている大学生の「とても考えさせられました」なんてコメントペーパーを見るより、よっぽど真摯な授業態度のように感じられた。

 彼女たちの「別に……」は無関心の現れではなく、すでにLGBTの友達がいるからゆえの「人権の授業」への冷めた眼差しのようだった。往々にしてあることだが、昨今は教師よりも生徒の方がLGBTについて知識豊富である。クラスにはすでにカミングアウトしている当事者がいるのに教師だけ知らないなんてこともよくある。このような欺瞞を思春期の子どもたちは見抜いてしまう。大人たちが子どもたちに学ぶことも多いのだ。

 どのように授業のバトンを引き継ごうかな、と考えて、私たちはまず彼女たちを褒めることにした。「きみたちは恐らく日本で最もLGBTについて偏見を持っていない素晴らしい人たちです」と。事実、世論調査でも若い世代ほど同性婚には賛成する。男性よりは女性の方が寛容だ。子どもたちのほとんどは「自分は別に差別しないよ」と思っているに違いない。なので、今日は「LGBTの授業をなくす」ために、どうしたらいいかをみんなで考えましょうと、ある意味では、人権講師としての自分の仕事を無くすかのようなテーマ設定をぶち上げてみたのである。

 これは結構、効果的なアプローチだったみたいだ。まず、LGBTの授業をなくすためには教科書を見直す必要があると思われた。保健の教科書は、思春期になると異性にひかれるとしか載っていない。国語でも英語でも異性愛とみられる家族の物語ばかりが出てくる。このような環境の中で、私たちは知らず知らずのうちに異性愛や、あるべき男女のイメージだけを教え込まれている。LGBTの授業をなくすのには、まずこのような不公平で偏った情報発信をやめて、現実世界を教科書に反映すべきなのだ。

 自治体のLGBT施策だって同じだ。私たちは当たり前とみなしたものには名前をつけないクセがある。イクメンという言葉はあっても、イクママという言葉はない。女医や女流作家という言葉があっても、男医や男流作家という言葉はない。同性婚という言葉はあっても異性婚という言葉はほとんど使われない。

 世界中で同性婚を推進している人たちは、そもそも同性婚という言葉を使いたがらない。結婚という言葉の定義を、いつだれが異性間に限定するものと決めつけたのだ、ということをかれらは主張しているのだ。

 LGBT施策の対義語は、異性愛者やシスジェンダーしか安心して使えなかったこれまでのあらゆる施策のことだ。多様性について学ぶことは、新しい知識を増やし「LGBT」という単語を記憶することではなく、これまで私たちが知らず知らずに学んできてしまった当たり前を、もう一度学びほぐすことなのだ——。この授業に合わせて、わざわざいつも使っているスライドを一新するハメになったのはとても大変だったが、生徒たちの「別に……」によって、思いがけず発信方法を変えることができたことは収穫だった。

 昨今、LGBTについて学校で教えようという動きは増えてきているが、どのように発信したら良いかわからず困惑している人たちも少なくないように思われる。授業の仕方について私は個別の相談を受けることもあるが、個人的には最近読んだダイアン・グッドマン著『真のダイバーシティを目指して 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』(上智大学出版)がめちゃくちゃ面白かったのでオススメしたい。多様性や社会的公正について教えている人たちのほとんどが体当たりとカン、生まれもった才能でスピーカーをしようとしているが、もう少し系統だてて教育のあり方をひもといてみようという本だ。

 「人権は大切、差別をなくそう」という硬直的アプローチではなく、私たちにはあの手この手でやれることがある。もっといろいろな方法があることについて学びたいと思っているので、この秋の研修はスライドを何パターンか入れ替えてみるつもりだ。LGBTの授業をなくす方法について、もっと多くの人と考えてみたい。

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