
映画 『パッドマン 5億人の女性を救った男』
12月7日に劇場公開される映画『パッドマン 5億人の女性を救った男』の「パッド」とは、日本で言うところの「使い捨て生理用ナプキン」のことである。使い捨て生理用品、つまり便利で衛生的な生理用品の歴史は、まだ浅い。アメリカでベルト式の使い捨て生理用品「コーテックス」が発売されたのが1921年、日本で使い捨てナプキンの元祖「アンネナプキン」が発売されたのが1961年。人類史上、ごくごく最近のことなのである。
女性の必需品である使い捨て生理用品がなかなか誕生しなかった背景には、根強い月経タブー視(不浄視)があった。世界の主要な宗教が月経を「穢れ」と見なしているため、アメリカにも日本にも、そして世界中のあらゆる地域に月経タブー視が存在したのである(今も存在している)。ヒンドゥー教の影響下にあるインドもまた例外ではない。
物語の始まりは、2001年。主人公ラクシュミが暮らす北インドの町では、月経タブー視にもとづく慣習が、固く守られていた。ラクシュミの新婚の妻ガヤトリは、月経中は部屋に入らず、廊下で寝起きする。タブーにこだわらないラクシュミは妻に触れようとするが、自身を「穢れの身」だと信じているガヤトリは、それが鬱陶しい。
あるときラクシュミは、ガヤトリが経血の処置に粗末な布を使っていることに衝撃を受ける。すぐにドラッグストアで外国製のナプキンを購入し、ガヤトリに手渡すが、彼女はナプキンが55ルピーもしたことに驚き、無駄遣いとしかとらえない。アジア映画研究者の松岡環氏によれば、当時の55ルピーは、現在の日本円に換算すると1100円とのことなので、たしかに高い。
しかしラクシュミは、病気の原因にもなる不衛生な布をガヤトリが使い続けることを見過ごすことができない。もともと発想力が豊かで手先が器用なラクシュミは、ガヤトリのために衛生的なナプキンを手作りしようと思いつき、そこから壮大なドラマが始まる。

映画 『パッドマン 5億人の女性を救った男』
皮肉なのは、ラクシュミのナプキン作りに最も反対するのがガヤトリであることだ。彼女は、ラクシュミが「女の穢れ」に関わることが恥ずかしくてたまらない。そして、「恥をかくより、病気で死んだほうがマシ」と涙を流し、ラクシュミのもとを去ってしまう。ここに、女性自身に内面化された月経タブー視の根深さを見ることができる。周囲から変人扱いされ、孤独に陥るラクシュミの一番の敵は、月経タブー視だったといえる。
妻のためのナプキン作りに励んでいたラクシュミだが、あるとき、夫に暴力をふるわれても、収入がないため従わざるをえない若い女性を目にし、「簡易ナプキン製造機」の開発を思いつく。ラクシュミが「パッドマン」と呼ばれ称えられる所以は、安価で衛生的なナプキンを作り、普及させたということはもとより、「簡易ナプキン製造機」を発明し、貧しい女性たちに「ナプキン製造」という仕事を与え、自立をうながした点にあろう。
ラクシュミは、ナプキン製造を独占すれば儲かるということは百も承知で、それをやらなかった。理由は彼自身が映画の終盤、国連におけるスピーチで熱く語ってくれる。このスピーチだけでも「笑いあり涙あり」で見ごたえがある。深刻なシーンであるにもかかわらず、なぜか噴き出してしまう、というのもこの映画の魅力の一つである。

映画 『パッドマン 5億人の女性を救った男』
「一人の女(ガヤトリ)も守れない俺は、男とは言えない」というセリフに象徴されるように、ラクシュミのナプキン作りは、あくまで「男として、女のために」という信念に貫かれている。その点が気にならないといえば嘘になるが、彼の一途さ、誠実さの前では「それもあり!」と言いたくなる。
わたしはつねづね、生理用品にはその社会の月経観や女性観のみならず、政治や経済も反映されると考えている。この映画を見てあらためて、生理用品は社会を計る指標だと感じた。