三井生命は大樹生命、新日鐵住金は日本製鉄へ……三井・住友が“看板を下ろす時”

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2015年9月11日、経営統合を発表する筒井義信・日本生命社長(左/現会長)と、有末真哉・三井生命社長(現会長)(写真:ロイター/アフロ)

 2018年11月22日の日本経済新聞は、三井生命保険が来年度にも「大樹生命保険」に商号(社名)変更する方針だと報じた。1927年より90年以上続く「三井」の商号に別れを告げるキッカケは、三井グループの要請によるものだという。なぜ、三井グループは三井生命に「三井」の商号を外すように迫ったのか。

三井+住友の合併に取り残され、ニッセイグループへ

 1990年代、バブル経済の崩壊による不良債権の増大で経営不振に陥った三井グループの金融機関は、企業体力の増強を企図して次々と大型合併に踏み切った。1999年10月、さくら銀行(旧太陽神戸三井銀行)と住友銀行が財閥の壁を越えて合併を発表(三井住友銀行)。それ以降、三井グループと住友グループの企業合併が相次ぎ、三井住友海上火災保険、三井住友信託銀行が誕生した。

 金融機関で唯一この流れに取り残されたのが、生命保険業界である。一説には、三井住友銀行が住友生命保険による三井生命の救済合併を勧めていたものの、三井生命の不良債権の深刻度がなかなかつかめず、住友生命が二の足を踏んだ。さらに住友生命自身も2015年まで「逆ザヤ」が解消できておらず、話が前に進まなかったといわれている。

 この三井生命の経営不振は深刻で、三井住友銀行が経営再建に乗り出す。2001年7月、三井住友銀行は副頭取を三井生命会長に派遣すると共に、80人近い営業要員を三井生命に送り込んで、営業部隊を大幅にテコ入れした。さらに、2000年の保険業法の改正を受けて2004年4月に三井生命保険相互会社を株式会社に転換して、三井グループ各社に出資を仰ぎ、大幅な資本増強を実現する。また、株式会社化することで、他社による買収が容易になった。

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三井生命は大樹生命、新日鐵住金は日本製鉄へ……三井・住友が看板を下ろす時の画像2 ウェジー 2018.09.06

 同じく2010年4月に相互会社から株式会社に転換した第一生命保険は、1兆円規模の大型増資を実施。その資金を元に海外でM&Aを進めるなど積極的な事業拡大を進め、2015年には、戦後初めて最大手の日本生命保険を首位の座から引きずり下ろしてみせる。

 そこで、日本生命は、2015年8月に三井生命を買収し、首位の座を奪還する。日本生命は、まずTOB(株式公開買い付け)で三井生命の全株式(約4000億円)を取得して完全子会社化、その後に同社株式の20%程度を三井住友銀行、三井物産、三井不動産などに売却。支配権を確保した後に、三井グループとの関係を維持する方策を採った。

 いうまでもなく、三井生命の最大の強みは、三井グループを営業基盤に持っていることである。三井グループ企業に勤めるサラリーマンであれば、どうせ生命保険に入るのであれば、「三井」商号を冠する生命保険会社と契約することは自然なことだろう。日本生命もそれを重々承知しており、買収当時から三井ブランドの維持を公言してきた。

 ではなぜ、三井グループは三井生命に「三井」の商号を外すように迫ったのか?

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2019年4月1日からの社名変更を伝えるリリース(三井生命保険の公式サイトより)

財閥の商号を、勝手に名乗ることは許されない

 実は「三井」「三菱」「住友」といった商号(以下、財閥商号)は勝手に名乗ることができない。それぞれのグループが商号・商標を厳しく管理していて、一定の基準を満たさないと使用許可されないのだ。

 商号・商標管理が厳格化された背景には、第二次世界大戦の敗戦がある。終戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍最高司令部)は、日本のような小さい島国が世界を相手に戦争を仕掛けた原動力のひとつに、財閥の存在があると考えた。そこで、徹底的な「財閥解体」が行われ、その一環として財閥商号・商標の禁止を打ち出した。

 1949年9月に財閥商号および商標の使用禁止が通達され、翌1950年1月には国内政令「財閥商号使用禁止令・財閥標章使用禁止令」が公布され、原則として三井、三菱、住友等を冠する商号・商標は、翌1951年7月以降、使用が禁止されることになった。しかし旧財閥系企業はこれに猛反対し、秘かに結集してアメリカの弁護士や吉田茂首相に掛け合い、なんとかこれを阻止することに成功する。

 こうした流れの中で、三井グループの場合、財閥商号・商標維持に関する会合を母体として、グループ企業の常務以上の親睦会である「月曜会」が結成される。法人格を持たない単なる会合であり、いわば高校・大学のOB会とさして変わりはないのだが、この会合がグループ各社の商号・商標を管理することとなる。ただし、やはり親睦会である月曜会が商号・商標を管理するのが不自然と考えられたのか、月曜会メンバー企業が中心となって、1956年9月に、三井商号商標保全会が結成されるに至る。

 今回の新聞報道でも、三井生命の「社名変更が必要になったのは『三井』の商号を管理する三井商号商標保全会から指摘されたためだ」(日本経済新聞)という。

「会員会社およびその関係会社は、『三井』の商号もしくは商標『井桁三』マークをあらたに使用する場合、あるいは変更・廃止しようとするときは、同保全会に報告し、その認否および条件の決定を求めることになっている」(『三井不動産 四十年史』)。

 ちなみに、この商号・商標の使用はタダではない。使用料がかかっている。三菱石油(現・JXTGホールディングス)は、合併によって「三菱」商号を外したことで、数億円の商号・商標使用料が浮いたという。換言するなら、財閥商号・商標は数億円の使用料をかけるだけの価値があるということだ。特に海外での信用は絶大らしい。そのため、これを厳密に運営していこうとする「三井の論理」に、三井生命は屈したのであろう。

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