マイノリティについて当事者以外が表現することには、つねに欺瞞が付きまとう。当事者でない人間に代弁する資格があるのかという問いがあるからだ。しかし、あえてその表現に取り組み、その問いそのものを突きつけるような戯曲がある。スイス人劇作家のルーカス・ベアフースによる『フラウ・シュミッツ』だ。
『フラウ・シュミッツ』はひとりのトランスジェンダーをめぐる物語である。口数の少ない「シュミッツ」という主人公について、周囲の人間はあれこれ想像を膨らませる滑稽さをコミカルに描いている。
今年7月、演出家の矢野靖人さん率いる「shelf」によるドラマ・リーディング公演がおこなわれたが、最小限の小道具で「演じる」よりも戯曲を「読む」ことに重きを置いた結果、戯曲のおもしろさが最大限に引き立つ公演となった。
演出家の矢野さんは『フラウ・シュミッツ』をどう読んだのか――その読み、そしてそれを演出にどう反映させたかを、俳優の沖渡崇史(シュミッツ役)さんと、川渕優子(シュミッツのパートナー・レーニ役)さんを交えてお話しいただいた。
あいまいな身体を引き受けるトルソー
――まずは矢野さんがどう読んだかも含め、あらすじを紹介していただけますか?
矢野:あらすじとしては、とあるグローバル企業を舞台とした話です。その企業に勤めている「フラウ・シュミッツ」(ドイツ語におけるフラウ(Frau)というのは女性全般に付ける敬称。シュミッツは名字)は、わかりやすく言うとトランスジェンダーですね。
ある日パキスタンでのトラブルの対応に誰かが行かなければならなくなるのですが、適任者がいない。パキスタンは治安の関係上、女性を派遣するのはまずい。そこで「元々男性の」シュミッツに男装してもらえばいいんじゃないか、という話になります。それがきっかけになっていろいろとトラブルが生じていく。最終的にはいろいろな問いかけをお客さんに残すかたちで戯曲は終わります。
あらすじとは関係ないところで非常におもしろいなと思ったのは、前半ではシュミッツがほとんど喋らないというところです。シュミッツはタイトルにもなっている主役なのに、どんな人なのかという人となりが、本人の口を通して語られることがまずない。話しかけられれば、ちょっと相づちを打つくらいです。後半になると少しずつ変わってきますけれどね。
そのことによって、簡単にカテゴライズできない性のあいまいさや揺らぎみたいなものも、こちら側の想像力によって補完せざるをえない。そこがおもしろいなと思いました。
――前半、あまりしゃべらないシュミッツの身体をトルソーが担っていたのが印象的でした。トルソーを使うのは早い段階から決まっていたのでしょうか?
矢野:はい。観客に想像力を巡らせてもらおうと思い、前半はシュミッツ役をトルソーにすることにしました。ただそうなると、前半ちょっとずつしゃべる声を誰が当てるかということは考えなければなりません。そこで、元々ト書きを読む(ナレーター役)予定だった沖渡さんにやってもらおうと思いついたんです。ト書きを読む男性、つまり物語のなかで支配力を持っている人が一方で空白の中心であるシュミッツを演じるという仕掛けがあればおもしろいのではないかと。後半、比較的おしゃべりなシュミッツ役は完全に沖渡さんにバトンタッチして、服装も男性的な服から女性的な服に着替えます。この仕掛けがあれば劇全体が成立するんじゃないかなと思ったんです。
実際にやってみると、「シュミッツはこう(男性/女性で)あってほしい」という欲望をひとりの人間が体で引き受けるより、トルソーという空の身体で引き受けるほうが、お客さんから見たシュミッツってどんな人だろうと想像できておもしろいだろうと思いました。
このような「見立て」は日本的な感覚なのかもしれませんが、非常に演劇的な表現です。本物じゃないものをそこに使っていくなかで、逆にそこに余白が生まれて、お客さんが想像して介入する余地が多いんじゃないかなと思います。ただの白いキャンパスでなくて、「余白」をどう配置するかが問題なんです。
「役柄」よりも「役割」を大事にする
――俳優のお二人は、戯曲や矢野さんの読みを受けてどういう役をつくっていこうと感じましたか?
川渕:特別にキャラクターをつくったというのはありませんでしたね。
矢野:それはぼくが指示していないというのもあります。役によっては本当に短いせりふでやりとりするだけなので、こちらでバックグラウンドを埋めていく作業は必要でした。こういう人でこういう考え方をしている人じゃないかとか、こういう育ち方をしたんじゃないかとかね。でもせりふがとにかくおもしろいので、どういう役なのか、どういう存在なのかということをガッチリ決めてしまうということはありませんでした。
これは言葉遊びみたいなものですが、「役」と言ったときに「役柄」についてはあまり話しあわないんですよ。どちらかというと「役割」を話しあう。戯曲を立ちあげていって一本の作品に仕上げていくときに、サッカーやバレーの試合のように、誰がシュートやアタックを決めるのか、どうやってパスを回していくのかというような意味あいについて考えるんです。
沖渡:ぼくがシュミッツをやるというよりは、周りが語っていくので、語られることに対してぼくの中でのシュミッツができあがっていくのがすごくおもしろかったです。
ぼく自身は、最初髭面でスーツなのがドレス姿になるじゃないですか。セクシュアリティというものはパッと見わからなかったりするけれど、それがひとつの「役割」になっていい効果が生まれればいいと思いました。
矢野:普段の稽古でもそうですが、今回はドラマ・リーディングだったので、特に「あなたは役(=登場人物)自身ではないから、必ずそこから距離を取ってほしい」と言いました。シュミッツだったらシュミッツを、レーニだったらレーニを演じているけれど、シュミッツ自身、レーニ自身ではない。ぼくは普段から「役=あなた自身ではない」ということを言います。「役づくり」と言ったときに、役と自分自身をくっつけちゃうタイプの役づくりもあると思うんですけど、そういうのはやめてほしいと言いました。これは「shelf」のスタンスでもあります。「shelf」においてとても重要な約束ごとのひとつは「あなたはその役=その人物じゃない」ということですね。
内面を想像するより、身体をつくっていく
――シュミッツがあまりしゃべらないことで、他の登場人物は想像上のシュミッツをつくりあげていきました。また、演出家や俳優も書かれていないことに対してある程度想像で埋めていくという作業をするでしょうし、観客もわからない部分をあれこれ想像するのはひとつの楽しみといっていいかもしれません。しかしつくる側にせよ観る側にせよ、想像で埋めていくという作業には身勝手さが付きまとうように思います。そのことに対してこわさのようなものはありませんか?
矢野:まずお客さんがこうだと思うことについては、ぼくらはとめられません。「こういうふうに観ました」と言われれば、「そう観たんですね、それはおもしろいですね」というふうにしか答えられないんです。よっぽど違えば、ぼくはそういうふうにつくってないけど、そういうふうに見えるのか、という対話はあるかもしれませんけどね。
だけどつくる側としては、やはり「沖渡さんはシュミッツじゃない」ということがキーになってきます。他人なので、絶対にわからない。ときどき若い俳優が「わたしまだ○○(役)のことがよくわからなくて」と言うことなどがあるのですが、ぼくは「わかるわけがないだろう、だって紙に書いてある文字なんだから」と言うんです。実在する人物でもそうなのに、ましてや戯曲の登場人物なんて紙に書いてある文字だけなんだから、わかるなんてことはない。ただ、似ているなあとか、こういう発言することあるなあとか、こういうときにこういう態度取っちゃうことあるなあとか、そういうところを取っかかりにして俳優はつくっていくのだと思います。自分の感情に近い部分や、状況からつくっていくので、役=登場人物の内面にはあまり立ち入らないんです。
ぼくは「ここ、もうちょっと声高く」とか「もうちょっと強く」とか「そこ3秒待って」とか、具体的な指示を出して、演技が変わったときに、ぼくが思っている反応が引き出せてれば、そのときに役者が何を考えているかは、あんまり聞かないし気にしないんです。たとえば川渕にだって、ぼくが要求した指示がどういう感情や内面を要求しているかでは演技してないでしょう? 怒っているときに青筋が立つとか、そういうフィジカルな面で役をつくっているんじゃないですか。
川渕:そうですね。わたしは逆に、ものすごく具体的に感情を指示されるとすごく嫌なんです。不自由になっちゃう。表に出てくるものが指示通りであれば、自分がどういうアプローチでそこに入っていったっていいでしょ、というスタンスなんです。でもそれは俳優さんによってすごく違うところだと思います。心持ちで説明したほうが、実際の表現に行きつきやすい人もいるでしょうね。
――この話は戯曲の内容そのものにもつながると思います。シュミッツの内面を、周囲の人間はある意味好き勝手埋めていきますよね。
矢野:そうですね。みんながこうあってほしいという欲望をシュミッツさんに投影しています。いろんな人の欲望を反映する、白いキャンバスのような存在ですね。いろんな人がシュミッツさんの内面を大切にするとかいいながら、ずかずかと踏み入っていく。男の格好してほしいとか、女の人でいてほしいとか。ユーリウス(シュミッツの会社の同僚)にとっては美しい女性だし、会社は、「法的には女だけど、(本音を言えば)男だろ?」って思っている。その方が都合がいいですからね。
まじめに考えて「笑うしかない」
――見る人によってくるくる変わるのは、観客としてもだんだん混乱してくるのですが、楽しくもありました。
矢野:楽しいですよね。『フラウ・シュミッツ』は、ある意味ドタバタ喜劇だと思うんです。コメディになっているので、日によってはお客さんがドッと笑うようなシーンもありました。ただ、日本人のお客さんって、自分がおかしくても、テーマが重かったりすると、笑っていいのかなって周りを見ちゃうんですよね。だから、観客が笑いにくそうにしている日もありました。
――笑っていいのかな、とためらってしまう心理は現代の日本の状況を反映しているところもあるのかなと思いました。
矢野:ああ……そうですね。でもよくできた戯曲や芸術作品というのは、ひとつの答えやメッセージがあるというものではありません。この戯曲もたとえば政治的な正しさではわりきれないものを描いています。わからないということがいちばん重要で、わからないということは、ときには笑うしかないということでもあるんですよ。わからないものを相手に四苦八苦してわかろうとしているのって、けっこう滑稽だったりしますよね。わからないよ! って投げだしてしまうかもしれない。そういう意味で、性的マイノリティの問題を扱っているからといって、神妙になるのだけはやめよう、ということは話していました。生まじめになってもしょうがない……まじめに考えるけれど、まじめに楽しい作品をつくろう、と。
ぼく自身も稽古中にしょっちゅう笑っていました。ぼくは俳優という存在が好きなので、俳優がいきいきしてたり、のびのびしてたり、よくわからないことになってたりすると、それだけで楽しいです(笑)。ただそれだけだと戯曲のおもしろさではなく俳優のおもしろさになってしまうので、今回はドラマ・リーディングということもあり、ある程度セーブしました。そこはやりすぎだ、とかね。特にロルフ(シュミッツの会社の社長)役の俳優に言ってました。
――社長のロルフはチンピラみたいでしたよね。人権には配慮しているんだけれど、それも結局は会社の利益になる範囲でやってくれ、という人物で、すごくリアルだなと思いました。
矢野:戯曲の原作者であるルーカス・ベアフースのインタビューを読んだら、どちらかというと性的マイノリティの問題を扱うというよりか、企業の暴力性にフォーカスを当てて書いたんだということを言っていました。「問題は企業の方なんだ、人間性を破壊していく」……そういう見方も確かにできるなと思ったけれど、ぼくはどちらかというと愛情を肝にして演出をかけました。それからアイデンティティ。もちろんそれを描く過程でアイデンティティが揺さぶられたり侵害されたりするという意味で、会社側の人間は重要でした。
愛を解釈する
矢野:いま会社というものが大きくなりすぎているんだと思います。フェイスブックやグーグルはいまやひとつの国家よりも大きな影響力を持っているぐらいですからね。いま、ぼくらが生きているこの現代社会では、企業と人間のベストな関係がまだ築けていない気がします。そのなかでシュミッツは、家族といっしょに柔軟に対応していって、最後会社に戻ってくる。ぼくはそこを中心にしたかったんです。
――現実の困難な状況に対抗するものとして、愛というものが描かれていますよね。それは戯曲もそうだし、演出でも強調されているように感じました。愛というものをどう解釈してああいう演出になったのでしょうか?
矢野:この戯曲と直接関わるわけではないのですが、ぼくにとっての、根源的な人間観のひとつとして、「惻隠の情」というものがあります。よくあるたとえ話では子どもが川に落ちそうになっていたら、サッと手を差しのべるでしょう、というような、あっと思って手を差しのべるようなものです。これは孟子の性善説を表す言葉です。ルソーも同じようなことを「憐み」という言葉で表しています。
どこかでぼくは、人間は共振する生き物だと思っています。感情はかなり文化に規定されるものだと思うんですけど、何か触って熱いとか、見ていて痛いとか、感覚的なものってあるでしょう。それと同じで同じ体同じ心を持っているから、憐みの心というものがある。憐みというのはかわいそうだとかいうものではなくて、感情が動いてしまうものです。
それは見返りを求めないものだと思うんです。そういうものが愛の原形というか根源的なものとしてあるんじゃないかなと思っています。恋愛となると見返りを求めたり、欲望の対象にしたりもすると思うのですが、そうではなくて、今回も、なんか心が動いちゃう、そういうものが軸になるとおもしろいかなと思って。シュミッツとレーニにしても、ぴったりくる相手を探してたとか恋に落ちたのではなくて、自分にとっての相手が、ただ「そこにいた」というのが、うまく描いてあるなと思いました。
川渕:レーニはシュミッツのことを、理解しきれているかというと、別に理解しきれていないだろうと思うんです。それは、「進んで理解しようと努める」ということとも違うんじゃないかと思います。最後の家族団らんのシーンはすごくいいシーンだと思ったので、ここをいいシーンにしたかったのですが、実際に稽古をやっていったときに、ただ隣にいるということでいいんだろうなと思いいたりました。それは芝居をやっていて見えてきたものなのかどうかはわかりません。でも稽古や本番含めて、これに関わっている時間ずっと考えていたのですが、稽古場でシュミッツと同じいすに座ったとき、そのときに「ああ、そうか」と腑に落ちたんです。
――ふたつのいすを家族3人で分けあうシーンはすごく印象的でした。
矢野:出演者9人でいすは8つ、ということははじめから決めていました。だから、沖渡さんの座るいすは元々なかった。でも沖渡さんが、稽古のときにたまたま座ったんですよね?
沖渡:そのシーンが長かったので、座ってみようかなと思ったんです。ヒールも履かなきゃいけなかったですしね。
川渕:そのときわたしが座るいすがなくなってしまったのですが、沖渡さんが半分空けてくれたんですよね。そこでとっさに、「じゃあ座るか」と思って座ったんです。
矢野:それはみんなでつくったシーンだったのですが、結果的にいい演出になったなと思いました。いい演出って誰かのアイディアだけでできるものじゃないんです。
――それこそまさに、「惻隠の情」ということですよね。トルソーもそうですが、必要最低限の演出が本当に効果的だったと思います。その演出がどのような読みに支えられているかがよくわかりました。今日はありがとうございました。
「shelf」は今月14日から17日から新作「AN UND AUS|つく、きえる」を発表予定。ドイツ人劇作家が描く、東日本大震災と福島第一原発がテーマだ。ここでも現れるであろう当事者問題について、「shelf」は真摯に向きあうにちがいない。次回作が楽しみだ。
(聞き手・構成/住本麻子)