
東京・大手町の経団連会館(写真:金田啓司/アフロ)
2018年10月、経団連(日本経済団体連合会)が就活指針の廃止を発表。大手企業の代表である経団連の存在が改めてクローズアップされた。では、そもそも経団連って何ものなのか?
経団連は日本を代表する経済団体である。なぜ経済団体が必要かといえば、経済界の総意を凝集し、その発言を他者(主に政界)に発信する必要があるからだ。
現在の経団連は、2002年に経済団体連合会(略称・経団連/以下、旧経団連)と日本経営者団体連盟(略称・日経連)が統合して誕生した。
当初は旧経団連と区別して、日本経団連と呼んでいたのだが、そのうち経団連と呼ぶようになった。このことが暗に示しているように、建前はどうあれ、実際は旧経団連による日経連の吸収合併だったのだといえる。

「一般社団法人 日本経済団体連合会」公式サイトより。写真は、2018年5月より同会長を務める中西宏明・日立製作所会長
旧経団連は、1945年9月に戦前の経済4団体(日本経済連盟会、重要産業協議会、全国商工経済会協議会、商工組合中央会)が合併し、経済団体連合経済対策委員会として結成され、翌1946年8月に経済団体連合会に改組された。第二次世界大戦の敗戦を受けて、連合国(GHQ)側への対応に備え、経済団体が一致団結してほしいと商工大臣(現在の経産大臣)が要請したから合併したのだという。
そもそも戦前に経済団体があったことすら一般には知られていないかもしれないが、戦前には三井・三菱という二大財閥がそれぞれ、政友会・憲政会という二大政党のタニマチになっており、経済界から政治へ注文を付ける太いパイプが別に存在していたこともあり、経済団体の存在なんて、そんなに注目されていなかったわけだ。換言するなら、経済団体の存在意義は、いかに政治に物申せるかにかかっているわけである。
カネの切れ目が縁の切れ目
旧経団連第2代会長・石坂泰三(1956~68年に在職)は「財界総理」と呼ばれ、強い発言権を有していたが、その背景には経団連による莫大な企業献金があった。経団連が加盟企業から企業献金を集め、一括して政権与党(自由民主党)に提供していたのである。
終戦後は労働運動が盛んで、日本共産党や日本社会党が急成長していった時代でもある。企業経営者たちは健全な資本主義社会維持のため、自由民主党に企業献金を行っていたのだが、個々の企業がそれぞれに献金すると、どうしても個々の企業の利害得失に結びつき、贈賄・汚職の温床になってしまう。そこで、経団連が個々の企業や業界の色が付かない企業献金をしようということになった。この仕組みは石坂が会長に就任する2年前に決まったのだという。
こうなると当然、自由民主党は、莫大な企業献金を提供している経団連の会長の意見を無視することなんぞできなくなる。
石坂泰三は、官僚出身でありながら官僚嫌いで知られ、統制的な経済運営を嫌い、自由経済を信奉していた。1960年代に日本のOECD(経済協力開発機構)加盟に反対する自動車業界をねじ伏せ、政府主導で特定産業の競争力強化を図る「特定産業振興臨時措置法案」が国会に提出されると、官僚統制的だと猛反対して、この法案をつぶした。また、池田内閣の意向を受けた日銀総裁の発言に反発して、「日本と池田内閣とどっちが大事だ」と喝破した。石坂自身は企業献金に批判的だったが、その権力の基盤は企業献金にあったわけである。
ところが、7代会長・平岩外四(がいし:1990~94年に在職)が、経団連による企業献金を全廃してしまう。平岩は財界人の中でも際立って学識に富み、良心的な人格者であった。当時は、佐川献金事件で細川護煕・総理大臣が辞任。金丸信・副総理が逮捕され、企業献金に対する国民の批判が強まっていた時機でもあった。
しかしご存じの通り、現在も企業献金は存続している。結局、経団連による一括した企業献金がなくなっただけであり、その結果として、経団連、ひいては財界の権力が半減しただけなのかもしれない。
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