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髪は女の命か? 坊主頭の「モテない」女の子【アメリカ・ハワイ】

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百女百様/はらだ有彩

 彼女は服を着すぎている。ホテルのエレベーターの中で私はそう感じた。

 最初はスリッポンを履いた足が、めくれたカーペットの隙間でぐねぐねと遊んでいる様子が目に入った。べろべろのデニムに、ずるずると穴の開いた長いカーディガン。おまけに首のよれた白いTシャツは目玉だらけだ。

 たぶん、ここがロンドンであれば気にならなかっただろう。ロンドンがだめなら原宿でもいい。しかし、私はそのどちらでもなく、オアフ島にいた。数日の滞在で見かけた人々の開放的な装いと、彼女の装いは随分かけ離れている。

 日が落ちても暑く湿った空気が漂うハワイの夜。湿気を吸ったカーディガンが揺れる。ひょろりと細長い体格はたっぷり垂れ下がった布を余らせ、柔らかいひだを作る。靴から始まり、こっそり視線を上げていく。骨ばった華奢な指がiPhoneをくすぐるように摘んでいる。持て余したヘッドフォンが首にかけられている。情報量が多いのはそこまでだった。着込みすぎているボディに対して、首から上はシンプルであった。彼女の髪は、ごく短く、均等に刈りそろえられていた。

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 エレベーターはゆっくりすぎるほど穏やかに上昇していく。彼女は退屈そうに自室のフロアに到着するのを待っている。ほんの3mmほどの長さでも、ピンと張りのある髪質であることが窺える。

 私は窓の外を見るふりをしながら、日本三大随筆の一つ『徒然草』の一節を思い出していた。

――女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかんめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。
(髪の美しい女ほど男の視線を引きつけると言うが、キャラクターやパーソナリティは会話を聞くだけで御簾越しにでも分かるというものだ。)

 上記の文章とその続きについては「やかましいわ」以外の感想がないが、吉田兼好が『徒然草』を書いた鎌倉時代、冒頭で前提とされるほどには「髪のめでたい」女は美しかった。一つ前の平安時代は言わずもがなで、あらゆる古文の授業で「女の髪は長ければ長いほど良い」という価値観が取り上げられた。さらに遡って飛鳥時代~奈良時代にも、木にかけておいた長く美しい黒髪を鳥が運んだことから、めぐりめぐって天皇の后になった女性を描いた「髪長姫伝説」がある。

とにかく髪の長い女はモテる。長髪の女は美しい。動けないほど長い髪には高貴さと淑やかさがある。長く豊かな髪に、男は異性や神秘を感じて惹かれる。その豊かさ、長さは若さや健康を想起させ、妊娠・出産の可能性をも感じさせる。髪の長い女は最高!

 ……という価値観の延長上に今があるわけだが、さすがに現代では「長髪の女性だけがモテて、それ以外はモテない」というのはあまりにナンセンスだ。いまだに男性が短髪でなければ眉をひそめられるシチュエーションが多く残っているため、そのコントラストで長髪が女性性を強調するセックスアピールだと言う人もいるかもしれないが、1300年前と比べると、さすがに刺激のバリエーションは細分化が進み、成熟しているだろう。

 ショート・ヘアは何度も流行を繰り返してきたが、とりわけ2017年前後から、ファッションモデルを中心に丸刈り、つまり「バズカット」が大流行している。ルース・ベルから始まり、クリステン・スチュワート、ドリー・ヘミングウェイ、アジョワ・アボワー、アンバー・ローズ、などなど。最近ではスリック・ウッズが記憶に新しい。

 しかし近年のポジティブなイメージとは対照的に、丸刈りはこれまで、世界において、日本において、「罰」や「反省」の証として使われてきた。マッチョイズムに従わせるために男性が丸刈りを強要されてきたシーンも多々あるが、女性の場合は姦通罪に対する罰として多く施行された。第二次世界大戦前後のドイツやフランスなどでは、敵国の男性と交際したという理由で多くの女性が丸刈りにされ、町中を引き回された。近年では2013年に、AKB48の峯岸みなみさんが「スキャンダルの責任を取る」という形で剃髪動画を公開していた。

 丸刈りは、なぜ「罰」として、それも対女性の場合は「より悲惨な罰」として機能するのだろうか?

 髪は頭を守ってくれるが、剃り落とされてもただちに命に別状はない。私たちは怪力サムソンではないので、ヘア・カットによって筋力が落ちることもない。髪の毛には痛覚もない。実質、肉体的なダメージはないはずだ。

 この問いに対して、「髪のメイン機能はセックスアピールである」という通説がまた頭をもたげる。すべての女性の髪が男性へのセックスアピールであり、すべての女性が男性へのセックスアピールを望んでいるという前提がある場合にのみ、「当分の間チャラチャラできないように」髪を刈るという罰が成立するのではないか。ついさっき「セックスアピールのバリエーションは細分化され成熟した」と書いたばかりだが、丸刈りが女性への罰として成立するうちはまだ「女性の髪は長い状態のみが美しい」という感覚がどこかに残っているのかもしれない。

 ちなみに「女性の髪は長い状態のみが美しい」という感覚さえなくなれば、他人の髪を刈ることが大きな問題でなくなるのかと問われると、当たり前だが全くもって大問題だ。自分の意思によって髪を剃り落とすことと、「丸刈り」を強制されることは全く別物である。

 髪は時間とともに伸びる。髪を切ることは、今まで過ごしてきた時間を身体から切り離すことだ。自分の意思に反して髪を切り落とされることが、それまで生きてきた時間を軽んじられるという意味を持つとすれば、到底許されることではない。

 そういえば、胸の下まであった髪をショートカットに切ってもらった時、美容師さんが床を掃きながら「呪いみたいっすね!」と言っていた。「人形の髪が伸びる」など、呪力を表すときには頻繁に髪が使われる。日本各地に伝わる「山女」は、地面まで届く長髪を揺らし、山中で出会った人を死に至らしめるという。

 髪を伸ばしっぱなしにすることは、いままで生きてきた人生の長さを表明し、力を漲らせる。髪を切らないことは、現代社会の風習を矮小化する手段となりうる。ロングヘアには生命と野生が潜んでいる。

 では、バズカットは、パワーを失ってしまったスタイルなのだろうか? こちらももちろん、全く逆である。

 buzzは、バリカンの音を表すオノマトペだ。ロングヘアが髪とともにあった時間の長さを表すとすれば、バズカットには行動の瑞々しさがある。頭皮に近い位置で整えられた毛先には、「私は髪を刈った! それも最近!」という行動の痕跡が残されている。この躍動感こそが、短く刈りそろえられた毛先に大きなパワーを宿らせているのではないか。この経験こそが、「男性が自分にない要素に異性を感じる」というような視座を飛び越えた「男女問わず、周囲の誰も持っていない要素」なのではないか。

 人が自分にないものに惹かれるのであれば、間違いなく丸刈りはモテるだろう。強要された「罰」や「反省」ではなく自発的に、従来のセックスアピールの概念を覆し、未だに一般的とは言えない髪型を選択する気概がここにはある。生命力を宿しているはずの髪を剃り落とす、その行為によって新たな生命力が生まれるのだ。

 ポーン、とエレベーターの音が鳴る。彼女は私のほうなど見ず、さっと箱をすべり降りた。カーディガンが勢いに合わせてぼわりとなびく。残り香のようになびくのは、布だけだ。髪は動かないほど短く刈りそろえられているから。それでも彼女の青っぽく美しい後頭部を、私はドアが閉まるまでずっと見つめていた。

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