
『富山は日本のスウェーデン: 変革する保守王国の謎を解く』(集英社新書)
井手英策慶應大学教授による『富山は日本のスウェーデン——変革する保守王国の謎を解く』という新書が8月末に刊行された。本書は「保守的」と言われる富山県で、女性の正社員率が高く、保育所待機児童はゼロと社会民主主義の国スウエーデンのような状況が見られることから、その背景を探ったものという。そして富山の「家族のように助け合う」という風土が、手厚い福祉国家であるスウェーデンに似た状況をつくっていると指摘する。富山県内では、多くの書店で店頭に山のように積みあげられ、また新聞各紙は井手氏の写真付きで大きく取り上げ、テレビも特集を組んだりして賑々しく報道された。全体の4割が富山で売れたというのも納得だ。
しかし、富山絶賛ぶりもあり、富山県民の中には気恥ずかしさや戸惑いも見られた。実際、私の周囲では「富山は日本のスウェーデン」と口走ると途端に乾いた笑いが起こるなど「トンデモ論」と見ている人が少なくない。井手氏が評価している富山の共同体が、三世代同居などの家族中心主義であり、富山の家族の閉鎖的で家父長的な性格を知る女性たちからは、「とんでもない」「何がスウェーデンじゃ」という反発の声も上がった。しかも、富山では一昨年から昨年にかけて自民党を中心に県議会議員3名、富山市議会議員14名の計17名が県民の血税である政務活動費を不正にごまかし、雪崩を打って辞職したばかりである。副題にある「変革する保守」のイメージに同意する県民は、だれもいないだろう。
さらに井手氏のいう「富山モデル」は、自民党の改憲論議での「家族の助け合い」条項や安倍政権の女性・家族政策とも大同小異である。「富山はスウェーデン」という井手氏の議論は、富山だけにとどまらない問題を孕むため、本稿ではその問題点を広く共有し、議論を喚起したい。
富山県主催「家族は温かいですか? 富山から日本の未来を考える」講演会
井手氏といえば、『経済の時代の終焉』(岩波書店)などで知られる気鋭の財政社会学者で、政治的な発言も盛んだ。総務省「自治体戦略2040構想研究会」の委員を務め、内閣府からヒアリングを受けたりしている。さらに井手氏は、全国知事会の「地方分権に関する研究会」などの委員に就任するなど、国や地方自治体からの信頼が非常に厚い学者である。
また富山県からも「未来創生県民会議」の特別委員や県の行政改革アドバイザーなどの委員を委嘱されてもいる。同氏は、さる12月18日、富山市の富山国際会議場における「とやまの未来創造」を考える県主催シンポジウムに登壇し、「家族は温かいですか?〜富山から日本の未来を考える」という基調講演をしている。石井隆一富山県知事を含めたパネルディスカッションのコーディネーターも務め、富山は「家族の原理を富山流にみんなで作り替えている」「周回遅れのトップランナー」などと450名の富山県民に向けて語った。同氏は「家族のように地域をつくる」など家族に高い価値を置き、「貧乏の中から作り出した富山の豊かさ」、「本物の保守」などと富山を褒めそやした。
平日の日中に行われたシンポの参加者には、仕事絡みで来たと思われる役所の関係者、教員に引率された高校生なども混ざっていた。テレビ各局がカメラを回し、地元放送局のお正月特別番組で富山県出身のタレント室井滋と対談するなど、井手氏は富山マスコミから引っ張りだこの様子だった。なお井手氏によれば、同書は早々と初刷10万部、中でも富山で4万部を売り切ったといい、富山の人は「ひけらかさないけど、本当は自慢したがり」だとも述べた。
その一方、講演の4日前に発売された『週刊金曜日』12月14日号の特集「富山県民座談会「富山は日本のスウェーデン」か?」で井手氏の書籍を取り上げていたことについて、客席に向けて示すパワーポイントにその表紙写真を映し出し、「左派は狂うかなと思っていたが案の定だった」など何度も「左派の雑誌」と繰り返した。
講演の中で井手氏は地域の問題を政治の力で解決するのではなく、住民が自助努力で解決する富山でのやり方を「公・共・私のベストミックスだ」とあたかも行政と地域、個人が協力し合っているかのように表現し、べた褒めした。さらに「このスローガンは安倍政権も早速取り入れている」と誇らしげに語ってもいた。
だが、財政学者が県民の自助努力で成立している共同体の事業を褒めるのは、富山県行政に県民の自助努力の施策を進めて良いと免罪符を与えているようなものだ。しかも「富山から日本の未来を考えよう」と、日本の未来を考えるためにも富山の議論は重要だとも指摘している。その一方で若年層の貧困や非正規雇用、男女の賃金格差、県の財政問題といった具体的で切実な問題を取り上げず、現実社会の課題解決を展望できるものではなかった。
井手氏が富山の政策にどのような効果を及ぼしているか、県の担当課に井手氏と富山県の政策との関係を問い合わせたところ、電話に出た県の企画調整室杉本氏は、井手氏と富山県との関係はあくまで県の2つの審議会委員というだけだと答え、私の求める対面での取材を「話すことはありません」と固辞した。さらに電話を代わった同室主幹・佐渡清氏は、シンポジウムは「単にいろいろな視点から議論する」ものであり、「井手氏が富山県の政策へ与える効果はない」と断言した。「井手氏の著作をきっかけとする」講演とシンポジウムを県の主催で開催しておきながら、富山県は井手氏との間に特段の影響や効果はないと切り離しに終始した。