トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること

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Thinkstock/Photo by aga7ta

いまツイッターで起こっていること

 先日、ネットに投稿された「ツイッターのせいで高校からの友達が死んだ」という記事をご存知でしょうか。投稿者の友人であるトランス女性(生まれた時に割り当てられた性別は男性であったが、性別違和を感じ、女性として生きる人)が、2018年7月2日に発表されたお茶の水女子大学のトランス女性の入学受け入れをきっかけに、悪意あるツイートを向けられるようになり、その結果、自死されてしまったという内容です。

 記事は匿名のものであり、真偽の程は確かめようがありません。けれど、私は、電車の中でこの記事を読みながら、涙を止めることができませんでした。記事の中の彼女のために、彼女と同じ苦しみにさらされているたくさんのトランス女性のために、そして、何もできていない自分の不甲斐なさが悔しくて申し訳なくて、泣きました。彼女の死は予測されるものでもあったのです。現在の、トランス差別があふれるツイッターを知っていたなら。

 お茶の水女子大学の声明は、多様な性のあり方に対応する女子大のアップデート、性的マイノリティへの理解が社会で進んでいることの証と受け取った人も多いものでした。しかし、その反面、さまざまな批判や、トランス女性を茶化したり、差別する声があらわになるきっかけともなってしまいました。

 声明に対する批判は、現代社会における女子大の存在意義を問うものと、トランス女性の入学を危惧するものであり、私の元にも「性犯罪目的の女装変質者とトランス女性との見分けがつかないため、トイレや更衣室が危険にさらされる」という声が寄せられました。

 トランス女性が女性トイレを使用することに対する不安は、これまで女性差別や性暴力を受けてきた経験、恐怖から出された声でした。そして、声をあげた女性の多くはフェミニストであることを公言していました。

 女性の経験は、当然、無視できるものではありません。フェミニズムは女性の経験を大切にするものです。けれど、「男性寄りの肉体、外見のトランス女性が、性自認だけで自由に女子トイレを使うこと」に恐怖を感じるという言葉のように、トランス女性の身体をジャッジしようとする声や、トランス女性のトイレ使用と性犯罪の発生が当然のつながりを持っているかのような言葉は、同意できるようなものではありません。

 しかし、以降、ツイッターでは徐々にトランス女性に向けられる差別や排除の言葉が大きく、露骨になっていきます。

 現在では、差別発言によって人の命が奪われたと聞いても否定できない、「あぁ、起こってしまったか」と思ってしまうような、そんな“惨状”が広がっています。命を絶ってしまった彼女の存在が真実でなかったとしても(そうであることを心から願っています)、ツイッターで起きていることは事実であり、彼女のような選択をする人がいつ現れてもおかしくない状況になっているのです。

フェミニズムと研究

 今回、トランス女性に対する排除の言葉がフェミニストの間から生まれたことは事実です。ですので、フェミニズムについて、少し考えをまとめたいと思います。

 研究者という立場の人間には専門の知識があります。

 世の中にあるたくさんの事象を整理したり、理論立てて考えたり、過去に起こったことをまとめたり、そういう作業を仕事としているので、知識があるのは当然です。

 では、そうした作業や知識は何のために必要なのでしょう。

 研究者によって考えは違うでしょうが、私は、たくさんの異なる考え方がぶつかり合う社会の中で、いろんな人びとが尊重しあって生きていくための知恵を出し合い、折衝するためのツールを作っているのではないかと考えています。

 なかでも、フェミニズムは、学問の場で軽視されてきた「女性」[1]という立場から、社会を捉え直し、性差別がどのような仕組みで行われているかを考えています。制度として行われている差別なら、制度を変えればその差別がなくなるはずだからです。医大入試で女子学生が不平等な扱いを受けてきたことが発覚しましたが、不平等な扱いという“制度”がなくなれば、男女という条件での差がつけられず、入試は公正になります。

 フェミニズムには、しばしば、「女性を男性より上位に置こうとする思想」という、的外れな言葉が投げかけられます。フェミニストは多様なのでそう考える人もいるかもしれませんが、多くのフェミニストは、「人間としての権利と尊厳が欲しいだけ」と答えるでしょう。そして、それは、現在の社会では、男性と同じ権利と尊厳を求めることとなります。医大での女性差別事件では、女子学生より低い点で合格した男子学生を探し出して、その位置を引き渡せと要求するのではなく、不当な扱いをした大学を訴えています。これは、公正さや奪われた権利の回復を求めているからです。決して、男性の上に立とうとするような思想ではないのです。

 フェミニズムは、男性にあって女性にない権利や自由や尊厳を取り戻す、という考えです。この考えをトランス女性にあてはめると、トランス女性が現在、不自由や不利益を強いられている状況からの回復――たとえば、気がねなく使用したい(女性あるいはユニバーサル)トイレを使用できること――は、フェミニズムの課題と一致するのです。

 フェミニズムは不公正な社会を変えるために理論をつむぎつつ、運動体としても存在し、理論だけでなく、女性としての経験を大切にします。

 むずかしげな理論と、ある種のイメージがついている運動、学術と関係なさそうな身近な経験、という並びをちぐはぐなものと考え、「フェミニズムは学問や研究ではない」と言う人もいます。

 では、なぜ経験を大切にするのでしょう。

 女性の経験はさまざまです。生理や妊娠、出産、セックスに関わることから、賃金労働と家事労働、政治活動や子育てや介護、女性にふるわれる暴力と女性がふるう暴力、外国人として差別されること、障害者差別、被差別部落出身で差別を受けること。そうしたさまざまな場面で、女性は男性とは異なる経験をしています。

 なぜ、女性は性暴力被害を受けることが多く、男性は加害者となることが多いのか。なぜ、同じ集団の中でも男女という属性で経験が違うのか。

 「性」によって社会での取り扱われ方に違いが出ることを性差別といいますが、フェミニズムはこの性差別を考え、理論立ててきた学問といえます。

 こうしたフェミニズム研究は、同じく「性」に関わる同性愛者への差別にその知見が活かされ、トランスジェンダーや規範的ではない(社会で「当たり前」とされているパターンにそわない)「性」を生きる人たちの権利や人権を考える研究に活かされてきました。

 もうひとつの「性」に関わる問題として、女性自身のからだに関わるものがあります。1970年の初版出版から、ずっと改訂が重ねられて世界中の言語に翻訳されている『私たちのからだ・私たち自身―女による女のための本(Our Bodies, Our Selves)』は、アメリカの女性集団によって書かれた本です(日本では1974,1988に出版)。荻野美穂(『女のからだ―フェミニズム以後』2014, 岩波新書)によれば、この本が誕生した当時、医師の大半は男性で、女性は科学的専門的知識を持たない無知な患者として、医師の判断に従うのが当然とされる社会だったとされています。

 女性が、自分のからだを男性医師に任せるほかなかったことに抵抗し、からだを自分の手に取り戻すという思想からこの本は生まれました。1970年のプレリリース版冒頭では、「からだは私たち自身。からだは私たちが入る容器なのではなく、からだは私たちそのものなのです」と書かれ、からだと自己とは一体不可分な関係にあると書かれています(荻野、同)。

 私たちのからだは他の人と共通する部分もありますが、それぞれ異なる事情を抱えています。ツイッターではトランス女性に対し、「手術(性別適合手術)を受けてない人には女性トイレを使って欲しくない」など、他人の身体のあり方に口を挟むものが多く見られます。

 これまで、女性が自分のからだを自分の手に取り戻そうと闘い、「からだと自己とは一体不可分な関係」にあることを訴え、チョイス(選択の自由と権利)を勝ち取ってきたフェミニズムの歴史からも、このトランス女性の身体への口出しは、非常におかしなものだと言わざるをえません。

 一方、フェミニズムは、フェミニズム内で意見の対立を抱え続けるものでもあります。1960年代後半のアメリカでは、フェミニズム運動の中から女性同性愛者を排除する動きもありました。レズビアン女性を「男性に同一化して女性を愛する女性」[2](ペニスを欲しがる女)と捉えたからです。また、黒人女性の経験は白人女性の経験と異なりますが、黒人女性の経験を無視しているという批判や、第三世界の女性たちに対し、欧米の価値観を押し付けようとしている、という批判もあります。日本でも、女性としての経験と学問が離れてしまい、フェミニズムは“お勉強”になってしまったという批判や、LGBTQの抱える問題にフェミニズムはしっかりと向き合ってきたのかという批判もあり、フェミニズム内での意見の対立や批判はしょっちゅうです。

 この対立は、しばしば「フェミニズムは一人一派」という言葉で例えられます。なぜ、統一しようとしないのでしょうか。

 私たちは、自分の位置から見える世界と、他から見える世界が違っていることを、知っています。社会の多くの場面は男性を中心に設計されているので、男性から見える世界と、そこから外されている女性から見える世界が全然違うことを経験してきました。子どもを育てている女性と、子どものいない生活をしている女性の経験が違うことも知っています。

 だからこそ、女性といっても一枚岩のように統一されるはずがなく、立場によって見えるものが違う。そのことを前提として、「あなたには何が見えているの?」「私のところからは、こんな風に見えるよ」と話し合いを重ねているのです。

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