以前南アフリカでLGBTのために活動している方を招いてトークイベントをしたときのこと。「何が大変ですか?」と聞いて返ってきた答えのひとつが「きれいな水を手に入れること」だった。きれいな水がないと、女の子たちは遠くまで水を汲みにいき勉強の機会を奪われてしまうからと。
南アフリカのレズビアンにとって教育や就労差別、ひとりで安全に外出できないことは深刻な課題だ。トランス女性は危険なセックスワークにさらされていて、被害を訴えても、トランスの言うことは聞いてもらえない。幼いトランス男性は今日もどこかで水を汲んでいる。南アフリカに限らず、日本社会にも同じような構造はある。地方には40代になっても結婚せず、食っていく道がないからと結婚していくレズビアンがいる。ゲイ男性にとっても、結婚して一人前の男だという風潮は息苦しい。性差別をなくすことを目指すフェミニズムがLGBTにとって重要なのは、LGBTもまた社会的な男女の枠組みの中で苦しむからだ。
しかし、このような前提は日本のフェミニズムでは、まだまだ共有されていないのではないかと感じることは多い。日本では、LGBTの問題はいまだ男女の枠組みの「外」で語られがちで、私は女性団体の人からしばしば「男・女」しかなかった性別欄に新しく「LGBT」を加えたらどうかとまったくの善意で提案されたりしている。そのたびに「男や女にもいろいろいるんだ、という問い直しが必要じゃないでしょうか」と伝えてきた。日本でフェミニズムに関心のある多くの人は、男性や女性の多様性ではなく「その他」としてLGBTを捉えていて、だからLGBTをめぐる新たな話題が盛り上がると「自分たちのパイ」が奪われたように感じる人もいるのかもしれない。
いま、ツイッター上では「トランス女性は女性です」というハッシュタグが盛り上がっている。昨年7月、お茶の水女子大学がトランス女性の受け入れを表明したあたりから「トランス女性のせいで女たちの安全な空間が脅かされるにちがいない」と考えたシス女性たちが差別的なコメントや誹謗中傷を繰り返すようになった。トランス女性を女性だと認めない人たちは、トランス女性を「所詮ペニス」と矮小化し、彼女たちが学校や職場でいかに排除されてきたか、性差別にあってきたかの訴えには耳を貸さず、ひどい言葉をぶつけている。トランス女性はまるで性犯罪を増やすやっかいもののように扱われている。このような動きを、野党批判の道具にしようとテレビでトランスへの恐怖を煽る元政治家も出てきてしまい、トランスたちと連帯したい人がこのハッシュタグを使って意思表明をしているのだ。
アメリカでは性自認にも基づくトイレや更衣室の利用を法律で認めたところで性犯罪が増えることはないとの大規模な調査結果が出されたところだが、トランスたちの生活実態やエビデンスなど知ったこっちゃない人たちも出てきているのは実に悲しいことである。
このような状況で、ひとつ参考になるかもしれないイギリスの事例がある。イギリスでは昨年法的な性別変更の要件緩和の議論が出てきたことをきっかけに、同じようなトランス女性へのバッシングが吹き荒れて現在に至るが、「トランス女性のせいで変質者の男が女たちの空間を襲撃する」というセンセーショナルなディスカッションに対し、DVや性暴力被害者支援のサービスを提供している現場のひとたちは「NO」を示しているのだ。
イギリスの論争で、もっとも頻繁に持ち出されているのは「トランス女性の受け入れによって、女装した変質者の男によって性暴力やDV被害にあった女性へのサービスが脅かされる」という話だそうだが、イギリスのLGBT団体ストーンウォールがこれらの施設に聞き取り調査をしたところ、現場の声はさわがしい世間とは実に異なるものだった。
聴きとりインタビューの中で、DVや性暴力被害者支援のサービスを提供している運営者は全員が「自分たちの女性専用サービスをトランス女性が利用することに問題はない」と語り、実際にこれまでトランス女性を受け入れた経験を肯定的に振り返った。法律が変わろうと変わるまいと、危険な人物が施設を訪れないようリスクアセスメントぐらいしているし、もともと障害のある女性や様々な文化背景の女性に対応できるよう多様性について取り組んでいる。もっぱらの悩みは「政府の緊縮財政により財源が減らされていること」というのが現場の声だった。「トランスなんて受け入れたら、大変!」という外野の煽りに対し、現場のスタッフの語りが語るリアリティの重さをあらためて感じさせられる。性暴力やDV被害者に寄り添う肝っ玉フェミニストが、一連の議論をもういちど冷静な地点に戻してくれるような力強さを感じたものである。
ふりかえって日本はどうだろうか。ツイッター上でトランスにひどいことを言っている人達はたしかにひどいけれど、そのような不幸よりも、性暴力やDV被害者支援を行う女性団体が、ここまでの説得力を持ってトランス女性の包摂について語れないことのほうが、本当の意味で、日本のフェミニズムの課題ではないかと思えてくるのだ。ハッシュタグ「トランス女性は女性です」が問うているのは、ひどい差別発言への対処ではなく、日本のフェミニズムの形そのものであろう。