「つながりすぎ問題」とソーシャルメディア時代を生き抜く3つの力

【この記事のキーワード】

(1)スルー力

 2006年ごろからある言葉だと思う。もともとは、ブログなどの炎上に対していちいち真に受けていたら疲れるし、日常生活には何ら影響ないのだから無視してスルーすればいい、といった文脈で使われていたようだ。

 これより少し早く流行した「鈍感力」に近い意味合いだろう。ソーシャルメディアの時代には、シェアやリツイートによって誰もが、他者の発信に便乗して容易に発信者となることができるから、ここではそれと併せて、他人のどうでもいいことに口を突っ込まずスルーできる力も含む、としてみよう。実際、たいていのことはたいていの人にとってどうでもいいのだ。最近はあまり使われないが、ソーシャルメディアが幅広く普及した今、もう一度この言葉を見直してみてもいい。

(2)みつを力

 もちろん、スルーしてばかりもいられない、ということもある。しかし、そこで怒りに身を任せる前に、少し考えてみよう。おかしな主張をしている人にも、何か背景や事情があるのかもしれない。そもそも人間はしばしば間違い、過ちを忘れ、また繰り返す生き物だ。そんな時に思い出したいのが「にんげんだもの」。相田みつをの書で有名な言葉だが、誰かに汚い言葉を投げつけたくなったとき、ひと呼吸おいて「にんげんだもの」と唱えてみることをお勧めしたい。

 同じ人間として、自分が同じ言葉を投げつけられたらどう思うかと想像してみることだ。相手に何か落ち度があるとすれば、それはたいてい、自分もかつてやらかしたか、これからやらかすに違いないものだ。自分が正しいと信じたいのは、自分の過ちを認めたくない弱さゆえかもしれない。それは『スター・ウォーズ』のヨーダ的にいえば「ダークサイドへの道」だ。

(3)だから何?力

 仮に誰かから理不尽な(と思う)批判や暴言を受けたらどうするか。スルー力を発揮してスルーすればいいわけだが、時には「だから何?」と言い返すことが必要なときもあろう。

 理不尽な批判はしばしば、人種や国籍、性別や年齢、職業や勤務先、家族関係や本人の人格、趣味嗜好や思想、行動パターンなど、批判の対象そのものではないところを責めてくる。所属するグループの中に悪い行いをする者がいればそのグループ全体を貶めるかたちで相手を貶める発言をする。だからといって同様の暴言を返せば共に修羅道(人間道の1つ下)に堕ちる。そうした言葉でダメージを受けるのは、自分が批判者と同じ「常識」を共有しているからだろう。そういう時こそ、「だから何力」の出番だ。非常識であって何が悪い、そもそもその「常識」自体が絶対ではない、ということだ。

「つながりすぎ問題」は、つながること自体の問題ではない  

 こうした考え方は、ソーシャルメディア上で自らの信じる「正義」のために熱心に活動している人たちには好かれないだろうが、別に彼らのやっていることが無駄だとか悪だとか言っているわけではない(暴言はよくないと思うが)。

  この文章は、そうした「活動家」と同じようなことをしよう、あるいはしたいと考えていて、にもかかわらずそれに疲れ、苦しんでいる人たちに向けたものだ。誰もが「活動家」になる必要はない。人間が社会のために役立てる場は、ソーシャルメディア以外にもたくさんあるし、そもそも「すべての人間が社会に役立たなければならない」という発想自体、一種の呪縛だ。

 「つながりすぎ問題」は、つながること自体の問題ではない。私たちがこの新しいつながりとどう付き合うかに慣れていないということだ。ソーシャルメディアの普及は、社会の中での結びつきを強化したが、それが私たちに苦しみを与えているのだとすれば、それを解きほぐすことはできなくても、やりすごすための知恵が必要だと思う。社会はもう少し、ゆるくていいのではないだろうか。

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